紀州のドン・ファン事件 高裁でも無罪! NETFLIXでのドラマ化不可避である理由
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『紀州のドン・ファン』これはひとつの男の破滅でも、ひとりの女の冷酷でもない。昭和の欲望が、平成の空虚に殺される物語である。
前半の主役はむろん野崎幸助だ。
ここには昭和という時代が信じていた、あまりにも古典的で、あまりにも露骨な神話がある。
金は力であり、若さは買える、性愛は男の勲章であり続ける、というあの強欲で、滑稽で、しかしどこか凄絶なまでに生命力に満ちた神話だ。
彼はただの成金老人ではない。むしろ「欲望を欲望のまま肯定できた最後の時代」の亡霊である。
今ならコンプライアンスに焼かれ、SNSに晒され、一瞬で記号として処理されてしまうような露悪と虚栄を、
彼はまだ“生”として生きていた。
だから面白い。そこには軽蔑されるべき俗悪さと、同時に、現代人がすでに失ってしまった剥き出しのエネルギーがあるからだ。
だがこのドラマが本当に不穏な輝きを放つのは、後半に入ってからだ。
平成のギャル的心性の化身の登場
須藤早貴を、単純なファム・ファタールや悪女として描いた瞬間、この企画は凡庸になる。
彼女はもっと時代的な存在として描かれねばならない。つまり平成のギャル的心性の化身としてだ。
ここで言うギャルとは、ただのファッションではない。
世界の重みを信じない感覚、愛も死も運命も“盛れるかどうか”の表層に還元されていく感覚、すべてを深刻化せず、
しかしその軽さゆえにどこまでも残酷になれてしまう感覚である。
昭和の男が「欲望は本物だ」と信じていたのに対し、平成のギャルは「本物なんて最初からない」と知ってしまっている。
この非対称こそが、この物語の恐ろしい芯になる。
だから二人の出会いは、恋愛でもなく、結婚でもなく、ましてやミステリーの導入でもない。
それは時代と時代の衝突そのものだ。
金で愛を買えると思っている男と、愛そのものを最初からアプリのインターフェースのようにしか感じていない女。
永遠にすれ違うはずの二つの世界が、寝室とLINEと検索履歴と高級ブランドと地方都市の豪邸の中で、
偶然にも接触してしまった。
ここがドラマとして抜群に強い。なぜならこれは「世代間ギャップ」などという生易しい話ではなく、
欲望の文法そのものが違う者同士の遭遇だからだ。
一つの結婚は、一つの殺人事件ではなく、日本の欲望そのものの解剖劇へ
そしてクライマックスの死は、犯人当てとしてではなく、ひとつの時代の死として撮るべきだろう。
野崎幸助が死ぬ瞬間に終わるのは、一人の老人の人生ではない。
金、肉体、男の成功神話、女を手に入れることへの執着、そうした昭和的欲望の最終残響そのものが息絶えるのだ。
だが同時に、後に残る須藤早貴の側にも勝利はない。
なぜなら“何も信じない平成”は、昭和を葬れても、世界の意味を自ら作り出すことができないからだ。
そこに残るのは達成感ではなく、空白だけである。ここがNetflix的でもある。善悪の決着ではなく、
時代の断層だけが生々しく残る。
視聴者は「結局、誰が何を殺したのか」以上に、「この国では何がもう終わってしまったのか」を見せられる。
つまりこの題材の本当の魅力は、
前半が“昭和の成金エロティシズムの絢爛たる悪趣味”であり、
後半が“平成の空虚な自己演出の冷たい無重力”へと反転することにある。
ギラついた金、性愛、地方の豪邸、犬、ブランド品、若さへの執着、検索履歴、スマホ、裁判、世論。
これらはバラバラの小道具ではない。
全部、日本が昭和から平成へ、さらに令和へと壊れていく過程で散らばった破片なのである









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