NETFLIX「BTS THE RETURN」が露わにしたバンタンの現在地とは? 徹底考察・レビュー!!
色々な意味で「裏切られた」ドキュメンタリーで面白かった!!!
事前情報的にはアルバム「ARIRANG」制作のためのソングキャンプ密着系と言われていて
この記事にも書きましたが
楽曲自身やパフォーマンス、様々なSNSコンテンツも大事だけど
やはり、なんといっても最もそのミュージシャンの「素」が現れるのは
楽曲を制作する過程であり、最も貴重な瞬間だと思います。
で結論からいうと楽曲制作ドキュメンタリーとしては上の記事のCORTISのソングキャンプものの方が面白かったんですが
いい意味でも悪い意味でも今のBTSの「現在地」が露わになっているという点で生々しいドキュメンタリーでした
目次
『BTS THE RETURN』が露わにしていたもの
それは、BTSがついに完成された第二章へと滑り出したという美しい神話ではない。
むしろその逆だ。
BTSはまだ「進化の途中」にいる。しかもかなり生々しいかたちで、である。
多くのファンや批評が夢見ていた物語は、おそらくもっと整ったものだったはずだ。
「Dynamite」「Butter」に象徴されるグラミー賞獲得への世界的挑戦。
ポップのど真ん中へ、アメリカン・メインストリームの王座へ、K-POPという出自を更新しながら食い込んでいこうとしたあの巨大な旅。
それが挫折し、彼らは活動休止に入り、傷ついた自我を抱えながら、それでも自分たちのルーツへと帰還する。
ニューアルバム『アリラン』はその帰還のアルバムであり、スターダムの呪縛から自らを解き放ち、
「世界のBTS」ではなく「自分たちのために音楽を作るBTS」へと移行する第二の旅の始まりである――。
そういう、あまりにも美しく、あまりにも理解しやすい物語だ。
だが『BTS THE RETURN』が映していたのは、そのような予定調和の自己救済ではなかった。
そこにいたのは、スターダムを一度くぐり抜け、その巨大さに傷つき、ルーツへの回帰を口にしながら、
それでもなお次に何者になるべきかを決めきれずにいる七人の青年だった。


つまりBTSは、神話のなかで完成された存在として戻ってきたのではない。
まだ迷っている。まだ揺れている。
まだ、自分たちの欲望と、期待と、過去の成功と、未来の理想像のあいだで立ち尽くしている。
この「未完成」こそが、このドキュメンタリーの最大の収穫なのである。
HYBEの女性スタッフの途轍もない優秀さがもつ意味
たとえば作中で示される、驚くほど優秀な女性スタッフたちの仕事ぶり。
緻密に設計されたコンセプトシート。アルバム制作のインスピレーションを可視化するムードボード。
表現の方向性を整理し、拡張し、言語化していく周囲のプロフェッショナルたち。



こうした映像を見て、「なんだ、BTSはスタッフに支えられているだけのアイドルグループじゃないか」と冷笑することは簡単だ。
あまりにも簡単だ。そして、あまりにも退屈だ。
なぜなら、問題はそこではないからだ。
本当に見るべきは、そのように外部から投げ込まれる高度な課題や提案に対して、BTSがどのように反応しているか、である。
彼らはそこに安住していない。寄りかかっていない。むしろ食らいついている。
苦しみながら、考え込みながら、ときに言葉を失いながら、それでもなお自分たちなりの答えを探そうとしている。
この姿は決して「おんぶにだっこ」の偶像ではない。
それはむしろ、まだ自分たちに満足していない者たちの姿だ。もう十分に偉大であるにもかかわらず、まだその偉大さを最終形と認めていない者たちの姿だ。
ここにあるのは完成者の余裕ではない。未完者の焦燥である。だからこそ、彼らは美しい。
「BODY TO BODY」における「アリラン」SAMPLINGの顛末
そうした彼等の迷いと焦燥が一番現れていたのはなんといっても「BODY TO BODY」におけるアリランSAMPLINGの扱いについてでした
KPOP大学での「ARIRANG」レビューではあえてこの「BODY TO BODY」に触れませんでした
なぜなら今回のコンセプトを象徴するものであるにもかかわらずその使い方が中途半端で、なんで??
という楽曲だったからですが
このドキュメンタリーでも一番尺が使われていたのはこのアリランサンプリングをめぐる過程で
そしてこのことは、アルバム『アリラン』そのもののあり方にも直結している。




『アリラン』は結果として、完璧にアップデートされた「BTS2.0」にはなりませんでした。
そこにあるのは、初期BTSの切実さや身体性、ルーツへの執着と、新しい表現、新しいフォーム、新しい成熟の試みとが、
まだ完全には融け合わず、時にぶつかり合いながら同居している、いわば**「BTS1.5」**とでも呼ぶべき過渡的な作品である。
だが、それは欠点ではない。
むしろその不均質さ、その混在、その揺れそのものが、今のBTSの真実なのだ。
「ARIRANG」が「BTS2.0」ではなく「BTS1.5」となったリアル
完成された2.0ではないから失敗、なのではない。
そうではない。
まだ2.0に着地していないという事実そのものが、彼らがなお前進している証拠なのだ。
本当に終わったグループ、本当に保守化したグループ、本当に自らの神話に安住したグループは、こんなふうには迷わない。
こんなふうには揺れない。こんなふうには、自分たちを更新しようとして苦しまない。
彼らはもっと手際よく「感動的な復活劇」を演出してしまうだろう。
だがBTSは、そこに逃げなかった。逃げきれなかった、と言ってもいい。
だからこそ『BTS THE RETURN』は感動的なのではなく、まず何より切実なのだ。
ここで暴かれているのは、「世界一のグループ」の輝きではない。
その輝きのあとでなお、自分たちが何者であるかを決めきれず、それでも作り続けるしかない者たちの、ほとんど青春の延長のような不安である。
BTSは超巨大な存在になりすぎた。だが彼らの内側では、まだ何も終わっていない。
いや、終わっていないどころか、ようやく本当の意味で「自分たちの音楽とは何か」という問いが始まってしまったのかもしれない。
PHOENIX「Love Like a Sunset, Pt. II」が挿入歌として使われた理由
このドキュメンタリーで唯一、ほぼフル尺で挿入歌的につかわれていたのがPHOENIXのこの曲でした
PhoenixのThomas Marsはロック史に残る途轍もない傑作となったこの曲を含む『Wolfgang Amadeus Phoenix』制作時、
このアルバムがかなり**“weird, personal, hermetic”**な題材を扱っていて、
ある意味“commercial suicide”だと思っていたと話しています。
つまり彼らはこの時期、ただ洒落たインディーポップを作っていたのではなく、個人的で閉じた感覚をポップの内部にどう忍び込ませるかを試していた。
そう考えると “Love Like a Sunset, Pt. II” は、アルバムの中で最も露骨にその本音が出た曲です。
ヒット性よりも、感覚の核心を優先している。だからこの曲はPhoenixの中でもかなり特異で、ポップ・バンドがポップの言語だけでは届かない領域に踏み込んだ瞬間として読めます
そして楽曲の世界観、“Love Like a Sunset, Pt. II”が持つ意味性は、ひとことで言うと、「到達」と「消滅」が同じ場所にあることを、ポップソングとして極限まで簡潔に言い切った曲ということです
「Acres. A visible horizon. Right where it starts and ends.」「Oh, when did we start the end?」「A visible illusion. Oh, where it starts, it ends.」という言葉が繰り返され
始まりの瞬間にすでに終わりが含まれている現象として捉えている。夕焼けが美しいのは、まさに消えていく時間だからで、そのタイトル自体が愛=黄昏の美**という比喩になっています
要するにこの曲の意味性は、愛は完成ではなく黄昏である、
見えている地平線は本当は“visible illusion”にすぎない、
始まりと終わりは対立せず、同じ線上にある、
ということです。
この選曲が暴いているのは、BTSの再集結をめぐる二重の時間だ。
ひとつは、ARMYが願った「7人がまた一緒に笑っている現在」。
もうひとつは、その現在を見た瞬間に同時に立ち上がる「この無垢さはもう永遠には続かない」という予感。
Phoenixの曲はその二つを同時に成立させる。
黄昏とは何か。
それは昼と夜のあいだにある、もっとも美しいが、もっとも不安定な時間だ。
光はまだ残っている。だがその光は、すでに消滅の方向へ傾いている。
つまり黄昏とは、輝きと終わりが同時に存在する時間である。
この曲が愛をそういうものとして捉えるとき、そこではもう「愛が続くかどうか」は問題ではなくなる。
問題なのは、愛のもっとも美しい瞬間とは、すでに失われつつある瞬間なのではないかという、残酷な真理のほうだ。
しかもこの曲は、そこにさらにもう一段ひどい視点を差し込んでくる。
見えている地平線は本当は “visible illusion” にすぎない。
これは実に決定的だ。
地平線とは、本来、世界の果てが見えているようで、実際にはどこにも触れることのできない線である。
見えているのに、届かない。
輪郭としては存在しているのに、実体としては存在しない。
つまりこの曲における愛とは、手に入る対象ではなく、見えているということだけで成立している幻の線なのだ
そしてこのBTSドキュメンタリーもまた、まったく同じ構造を持っている
あそこにいた7人は、単純に「昔に戻った7人」ではない。
むしろ逆で、もう昔には戻れないことを引き受けながら、それでもなお一緒にいようとする7人だった。
その姿は、完成された神話ではない。
完全無欠の勝者の像でもない。
それはもっと不安定で、もっと人間的で、もっと美しい。
なぜなら彼らはそこで、「永遠」を演じていないからだ。
永遠ではないと知ったうえで、それでもなお共にあることを選び直している。
その選び直しの瞬間こそが、黄昏の光のように眩しい。
ここであの二重の時間は、単なるノスタルジーではなくなる。
それは「昔はよかったね」という回顧ではない。
むしろ、いまここにあるものの有限性を知ったうえで、その有限な輝きに震える感覚だ。
7人が笑っている。
その光景はたしかに幸福だ。
だがその幸福を幸福として受け取れば受け取るほど、同時に、その幸福が壊れやすく、一回的で、取り返しのつかないものとして感じられてしまう。
つまり観客は、現在を現在として見ることができない。
常にそこに、未来から差し戻された喪失の影が入り込んでくる。
この構造こそが黄昏であり、この構造こそが “Love Like a Sunset, Pt. II” の核心だ。
そしてここで、BTSという存在そのものの見え方も変わる。
彼らはもはや「ただひたすら上へ上へと昇り続けるポップスター」ではない。
その物語はすでに一度終わっている。
いや、正確には、上昇の物語の内部に最初から終わりが埋め込まれていたことが、いまになって見えてきたのだ。
世界制覇、記録、スターダム、神話化。
そうした眩しい線は、たしかに存在していた。
だがそれもまた地平線だった。
見えていた。
多くの者がそれを目指した。
しかし近づけば近づくほど、それが固定された到達点ではなく、つねに後退し続けるvisible illusionであったことがわかってしまう。
だからこのドキュメンタリーにおけるBTSの「帰還」は、栄光の再演ではない。
それは、幻の地平線を追いかける物語から一度降りた者たちが、
それでもなお、互いの隣に立つことの意味を探しなおす物語である。
そしてそこにPhoenixのこの曲の思想がぴたりとはまる。
愛が完成ではなく黄昏であるように、
グループもまた完成された記念碑ではなく、黄昏の光のなかでその輪郭をあらためて見出される存在なのだ。
この「LOVE LIKE SUNSET」が鳴らされる理由、それは
BTSは帰ってきたのではない。
BTSは、終わりの気配を抱いたまま、もう一度始まりの線に立ち直したのである
そしてその線は、
到達点ではない。
約束された永遠でもない。
ただ夕焼けのように、いまだけ確かに見えている。
触れられない。
だがたしかに、そこにある。
その危うく、儚く、信じがたい光のことを、
この曲は「愛」と呼び、
このドキュメンタリーは「BTS」と呼んだのだと思います
そしてこのドキュと並んで必見なのがERIKHIGHのYoutubeチャンネルにゲスト出演したSUGAとRMのトーク!!!デビュー時から2026年までのBTS史を物凄い熱量と秘話で語っていて面白すぎます











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