田山花袋の「蒲団」こそ令和時代の最も”エモい”脚本である

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このブログでは脚本を書くことを「ストーリーではなくストリームを書くこと
と再定義して、そんな2020年代のための脚本のあり方を
XR脚本術と名付けています。
そしてそんなXRな脚本を書くために必要な「ディシプリン」として
明治時代後期に生まれた私小説を僕等は再び読み返さなくては
ならないという記事を色々と書いてきました。

 

 

そして今回はそんな私小説における正に「バイブル」
田山花袋先生の「蒲団」を取り上げてしまいます。

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沙奈絵ちゃん

田山先生のエピソードでらしいなぁっていうのは
原稿が書けなくなると書斎の机をゴリゴリとナイフで削って机中ギズだらけっていう
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人間失格

学校の机に落書きしまくる中二病感!! このエモさこそが田山花袋の真骨頂なので
今回はそのあたり推しなんだニャー

誰も田山花袋のようには「恋」を書けなかった

田山花袋の「蒲団」は青空文庫やAmazonのKindleで
無料で全編読めますし、いわゆる"あらすじだけ"は
超〜ー有名なので言及しませんが


僕が不思議でしょうがないのはこの「蒲団」は
発表されてから110年年間!!!以上ひたすらバカにされてきた事。
この「日本で最初の私小説」はずーっと
やれ
「いい大人がみっともない」
やれ
「女々しい」
やれ
「ストーリーがない」
やれ
「ロリコン」

と正確にいうとバカにされるというより「小バカ」にされてきたというのが正しくて
簡単にいうと「こんなもの誰でも書ける」と見なされてきたわけです。
これは上の「失われた近代を求めて」の記事でも書きましたが
誰でも書けるという「普遍的なスタイル」を持っていたために
私小説は日本固有の一大ブームとなり、それを忌み嫌った文学者達による
長年の「蒲団的なもの」「私小説」DISがようやく功を奏し
「蒲団」は気持ち悪い小説・笑える小説という評価が定着してしまいました。
この蒲団ディスは文学界が先導したものですが
とにかく昭和の、そして昭和が劣化した形で退化した平成の
文学者の方々は「物語・ストーリー」が書きたくて書きたくしょうがなかった・・・
それはなぜかというと彼らは小説とは何かという根本的な命題を
私小説によって突きつけられたからです。

「お前自身をさらけ出したものが小説である」

これが私小説というスタイルが提示した究極の方法論です。
SNS時代に生きる僕らには炎上案件としての
さらけ出された「私」に慣れきっているので不思議に思いますが
これは多くの文学者を怯えあがらせました。
断言するのもアレですが文学者を含めて表現者なんて
一皮むけばキ●ガイで変態で禁治産者達ばかりです。
それについて書くことだけが文学だ!と言われた彼らには
自らの変態性欲を
自らの他者嫌悪を
自らの自己欺瞞を
書く勇気がありませんでした。
こんなもの誰でも書けると揶揄しながら
誰も田山花袋の「蒲団」のようには書けませんでした。

直接性から逃走した文学者たち

そして彼らは反撃します。
「文学者は"人"を書くのが仕事である。人間観察の目を他者に向けて
観察された人間関係から発生する物語を書くのが文学である」

自らの人間性だけは特権的に除外したウマーーーイ逃げ方だなぁ・・と
僕なんかは思いますが、この主張が多くの人たちに受け入れられていきます。
なぜなら「自分の悲劇」は痛みを伴いますが
「他人の不幸」は誰にとっても目福であり蜜の味です。
人間観察のため、文学者であると自己規定してしまえば
自らをセーフティーゾーンにおいたまま文章を書くことが可能になる。
これを僕は「狡さ」だと思いますが、多分この記事を読んでいただいているような
奇特な方々はお分かりのように、世の中はそんな狡い奴らでいっぱいですよね!!
趣味が人間観察??? SNSで正義マン??
僕にとってはそんな人たちの方が「気持ち悪く」て「笑え」ますが

時代は「蒲団」の方を気持ち悪くて笑えるモノと捉える方へシフトしていきます。

「EMO」によってポップ・ミュージックが取り戻したもの

でもそうした風潮は文学だけでなくポップ・ミュージックでも
同じことが起きていました。
この記事でも書いたように本来POP MUSICとは自分の半径5m以内
つまりは「どれだけ自分をさらけ出せるのか?」という私小説的方法論によって成り立っていました。

 

それは歴史的にいうと文学が失っていった直接性をポップ・ミュージックが
担っていたという関係性
があったわけですが
POPがROCKが産業として巨大化していけば行くほど、やはり文学と同じように
「曝け出すことへの躊躇」「そんなことしなくても聴く人いるんじゃね?」説が蔓延していきました。
しかしそこへインターネットが誕生します。
そして今や懐かし過ぎる原始SNSである「MYSPACE」によって
再び「曝け出す事」の直接性を取り戻したポップ・ミュージックが登場します。
それが「EMO」でした。


そして田山花袋の「蒲団」が私小説というムーブメントのバイブルとなったように
EMOというムーブメントを生み出す事になった決定的なアンセムが
Dashboard Confessionalの「Screaming infidelities」でした。

Dashboard Confessionalとは田山花袋である

はっきり言って日本では「EMO」とはなんだったのか?という検証も全くされていないため
Chris CarrabbaことDashboard Confessionalが、そして
Screeaming infidelitiesを含むEMOの金字塔1st ALBUM
「The Swiss Army Romance」がどれだけその後のポップ・ミュージックに甚大な
影響を、「今」も及ぼしているか書かれた日本語のテキストは全く存在しませんが


POP史に置いてThe Swiss Army Romanceほど、(この言い回しの是非は置いておきます)
「女々しくて」
「みっともない」
自らの感情をさらけ出したアルバムは今も存在していません。
去ってしまった彼女が残していった服やベッドシーツの残り香に執着し(ななななんと蒲団な・・・)

床に落ちた彼女の髪の毛を見つめ
僕が悪かったと号泣しながら絶叫する・・・・・
赤裸々過ぎる、しかしその直接性に満ち溢れ・・というか
直接性しかない「失恋の痛み」は、あの伝説的な
「Screaming Infidelities合唱現象」を生み出し

故xxxTENTACIONをはじめとする「失恋と未練」しかLYRICにしないエモラップまで
絶大な影響力をいまだに与え続けています。

そうした現在の僕たちの立ち位置から田山花袋の「蒲団」をとらえ直したとき
この「未練」という感情の直接性がストーリーを木っ端微塵に破壊していく
日本最初の私小説こそ日本文学における最も「エモい」作品であり
XR脚本術にとってもバイブルであるというのがわかると思います。

まとめ


こーやって書いてくるとこう思われる方々もいらっしゃるかもしれません
「もう曝け出すなんて表現はSNSで誰もがやってるんだから
それを脚本でやる意味ないんじゃないですか?」と
しかしTwitterの140文字で
インスタの一枚で
YOUTUBEの10分のMOVIEで
どこまで自分の中へと潜っていけるか?SNS領域でさらけ出した・たどり着いた先が
その人の最も深い深部なのか?

XR脚本術によって「無敵の人3.0」を書いた僕は自信を持って言えます。
「違う」と。
SNS的ソーシャルというメディア空間でリーチできるものには限界がある
という事をそろそろ皆さんが感じられていると思います。
僕らはその先を目指している。
その未開の精神のありよう、なんども言いますが2020年代に主流となる
XR的な精神に誰よりも早くたどり着くために僕らは脚本を書くのです。
僕らはどこまでいけるか??
その恍惚と絶望の諸相を誰よりも早く・みっともなく・深くさらけだした田山花袋の「蒲団」
は2020年代にこそその正しい評価をするべき傑作私小説なのです。

今回も記事をお読みいただきありがとうございました。