田久保真紀市長はなぜ19.2秒だけ卒業証書を見せたのか? 百条委員会証人尋問にみる政治空間が自己セラピーの場になるという事
当アカウントは今政治で起こっていることは政治の再宗教化という事態であり
そうした現状分析のその先にあるのは途轍もなくPOPな新しいミライであるという事まで書いてきました
だから今、その過程において社会の、政治のあらゆるゾーンで「膿だし」のような現象が起こっていて
かなり前に伊東市の田久保市長に関するエントリー記事は書きましたが
先日行われた百条委員会での田久保市長を拝見して
あーーーこれはもっと深堀したポップカルチャー的視点でのキャラクタースタディをしておかないとと感じてこの記事をエントリーしています
キーワードは
「政治空間の自己セラピー化」
です。
目次
田久保真紀市長的なるものとは何か?
今回このエントリーを書くにあたって
・週刊文春のこちらの記事も読み
・田久保市長が政治的イシューに関わる以前のカフェオーナーとして書き綴った非常に参政党サポーター的なオーガニック色の強いこちらのブログも読み
・彼女が代表として取り組んだ「伊豆高原メガソーラー訴訟を支援する会」の活動も精査し
・この活動によって支持を得た彼女が伊東市市議会議員として行った政治活動も調査してみました。
なんとなく雰囲気としてなぜこれだけ田久保市長を支援する言説が多くあるのか?がよくわからなかったんですが
なーるほど!として彼女のこれまでの軌跡はリベラル的な政治ナラティブに基づいた活動であった(市長選で彼女を支持したのは共産党だけでした)
ため、そうしたリベラル的ナラティブの旗印として彼女を支援している方々が多いという事。
とこれが"オフィシャル"的に語られている田久保市長像なわけですが
ポップカルチャー論的視点からのキャラクタースタディでは、そうした社会化された自己像はその人のホントウの裏返しであると捉え
ではその人のキャラクターの本質がどこにあるのか?を探ることとなります。
その時一つの重要な手掛かりとなるのが「声」です
非常に不思議な田久保市長の「声」とは
何故ポップカルチャーにおいてはその人の声の響きに着目するのか?については
この伊藤監督の「Black Box Diaries」のレビューで徹底的に解説しましたが
田久保市長の「声」も非常に不思議な響き方をしています。
それは東京都知事である小池百合子女史の声に極めて似ている・あるいは意図的に似せてきているというところです
こー書いてしまうと「あーーー二人とも卒業疑惑だからさー」という紋切り型のまとめでチャンチャンとしてしまいがちですが
そうではなくて、上に張った6年前の2018年のフォーラム動画での田久保女史の声はこの卒業証書案件が発覚して以降の
あまりにもあまりにも小池知事に激似な響きではありません。
この変化がどういった意味を持つのか?
ポップミュージックにおいてボーカリストがそのボーカリゼーション=声の響きを変えるというのは
ほぼその音楽性の全てが変わるということに等しくて、例えばThe Beatlesのジョンレノンは
ビートルズの中期に意図的にボーカルスタイルを変え
佐野元春氏もそれまでの名声を捨てて「HIPHOP」に取り組んだ
JPOP史に残る傑作アルバム「VISITORS」で意図的にボーカリゼーションを完全に変えました
それはメディアに登場する人々全てに適用が可能で
伊藤詩織監督の「二重の声」にこそ「Black Box Diaries」という作品の本質があったように
この田久保市長の「声」の変化にこそこの卒業証書問題の本質が
というよりこのエントリー記事で書いた兵庫県の斎藤知事とは何者なのか?という本質と共に
今日本の政治でおこっている「膿だし」の本質が
「政治空間が傷ついた自己愛のセラピー空間」になっている事
であるのを如実にあらわしているのです。
何故「政治空間」は自己愛を保全するためのセラピーへと変質したのか?
田久保市長の「声」について書いていますが、同様にもう一年以上!!!続いている
絶対にアナタたちジャーナリストの問いには答えないという信念のもと作りあげられた
斎藤知事の定例会見での特異な声
本当に残念なのはこの上の動画内で時事通信記者が斎藤知事信者の方々による
抗議によってetcの話をされているのでリベラル側の方々は俄然
斎藤知事とその信者の方々による妄信性について言及されていらっしゃいますが
そこじゃないんですよーーーーーーーーーーーーーーー・・・・・
何故斎藤知事が完全に作られた声優的「声」を発し続けるのか?
そして田久保市長が本来の自分の「声」ではない小池声で情報発信をするのか?
それは斎藤知事もそしてその信者の方々も
そして田久保市長もその支援者の方々も
自らの自己愛の穴を、政治で埋めようとしてるからなんです
■ 1. なぜ「政治=セラピー」になってしまうのか?
● 自己愛の穴を、政治で埋めるしかなかった
本来、自己愛って
家庭で「ありのままの自分」を肯定され
社会で「機能する自分」を承認される
この両輪で育つものなんだ。
でもそれがボロボロに傷ついた人――
たとえば、親に否認され、仕事で通用せず、孤独に陥った人――にとって、
**“みんなの前で、誰かが大声で自分の怒りを叫んでくれる”**っていうのは
**「存在の補填」**なんだよ。
だから彼らは、
“私の気持ちをわかってくれる”首長を「推す」ことで、
自分の不全な愛着の“代償行為”をしているんだ。
■ 2. 知事や市長も、傷ついた子どもである
報道では斎藤知事は自らが所属していた総務庁では「使えない」というレッテルを張られ地方をたらい回しにあっていました
そして田久保市長は文春報道にあるように大学生時代から「奔放な性活」をしていてその語もある種の社会的アウトサイダーとして生きてきました
実は、支持者だけじゃない。
**首長本人も「承認が足りなかった子ども」**だったかもしれない。
学生時代に注目されなかった
地方や家庭で抑圧された
大人になっても、組織の中で評価されず、「目立てなかった」
こういう人が、「今こそ私の番だ」とばかりに立候補するのは、
純粋な社会変革だけじゃなく、
「見てほしかった私」の復讐でもある。
そしてその“復讐”に、人々の自己愛が共鳴する。
こうして、**「みんなで自己愛の穴を埋め合うカルト」**が生まれる。
■ 3. なぜ彼らは“恥”を否認し、訂正しないのか
政治家が「過去の発言を訂正しない」「嘘を突き通す」
――それは理性の問題じゃなく、恥を処理できないからだよ。
自分の失敗を認めると、“無能な自分”が露呈してしまう
それは過去の否認された自分を再体験することだから耐えられない
だから、真実を否定し、外界のせいにする
この回路は、自己愛性パーソナリティ障害にも近い。
でもそれ以上に、**「恥を処理できない社会」**の被害者でもある。
■ 4. なぜ支持者は“間違い”を認めないのか
彼らは「田久保市長も斎藤知事も間違ってる」と心のどこかでうすうすわかってる。
でもそれを認めると、こうなる:
「その人を信じた私」はバカだった
「その人と共鳴した私の痛み」は無駄だった
つまり、「癒やされようとした自分」が否定されるのが怖いんだ。
だから彼らは、
矛盾を無理に整合化し
批判者を“既得権益の使徒”と見なし
“信仰”を強化する
この構造、まさに**精神分析的な「信仰の防衛機制」**だよね。
田久保市長。あなたは「間違っている」んじゃない「傷ついて」いるんだよね・・・・・
百条委員会で田久保市長が執拗に主張した「19.2秒」・・・・・
これは正に政治空間が自らの自己愛を回復するための「セラピー」として使われている
「ワタシはワタシの中で間違っていない!!!」
というとても幼稚な、でも田久保市長の中でずーーーーっと傷ついたままの
オーガニックでも環境破壊へのカウンターでも代償できなかった
彼女の中の「インナーチャイルド」の赤裸々な表れです。
僕はこの田久保市長的なるもの(そして斎藤知事的なるもの)
つまり自らの満たされなかった自己愛をどんな手段を用いても回復したい
という絶望的な切実さは
今後確実に訪れる本当に新しい社会、圧倒的にPOPなミライに至るための
膿だし
だと思っています。
このチクチクチクチクまるで「棘」のように僕らのココロを刺す
居心地の悪い「共感性羞恥」・・・・・・・・・
僕らは今、田久保市長的なるものを通して
絶対に絶対に絶対に絶対に!!! 自己愛という「イマ」から
それを手放した「ミライ」へと手を伸ばさなくてはならないことを学ぶのだと思います



















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