X JAPANとYOSHIKIに『ダンダダン』公式が謝罪 オマージュとパロディの違いをポップカルチャーの視点で徹底解説

その他

ビジュアル系ジャパメタとジャパニメーションっていう
昭和後期から平成そして令和期まで日本のポップカルチャーを考えるときに避けては通れない二大コンテンツで
でも僕自身のポップカルチャー観からはいまだに対象化しきれていない最大の「モヤモヤ」業界が大激突!!

このイシューにあるのは「オマージュかパロディか?」というテーマであり
ここの部分が最近唱えてる「政治の再宗教化」と重なり合う部分があるのでエントリーしています

『ダンダダン』製作委員会の謝罪文にみる欺瞞性

もう既にこのイシューは『ダンダダン』製作委員会側が「完全降伏」の謝罪文を出していらっしゃるので
終結しちゃってるんですが

でもこの内容が結構衝撃的で、「えーーーーーYOSHIKI側に全く話通さなかったんだ(笑)!!」

というかここがダンダダン側の今回のキモの部分だと思うんですが
そりゃ「通せなかった」よなー・・・・・・というのは
この謝罪文では事態を収拾するために

「オマージュ」

で徹してますが

この「HUNTING SOUL」はポップカルチャー的に見れば明らかに

「パロディ」なんですよ。

『ダンダダン』の作品構造分析から見るパロディとオマージュ

1)笑いの導線としての70sオカルト

 UFO・心霊・都市伝説をまず“仕掛け(セットアップ)”として提示→すぐ“ズレ”や“過剰”で落とす(パンチライン)。恐怖や畏怖を長く保持せず、ギャグの起爆剤として回す設計は明確にパロディ的。

2)原典の機能転用(恐怖→恋愛&バトルの燃料)

 70年代の「未知への畏怖/霊能番組のドキドキ」は、作中で主人公カップルの距離を縮める装置やバトルのギアチェンジに転用される。原典の“機能”ごとズラすのはパロディの技法に近い。

3)記号の表層引用を高速サンプリング

 “円盤型UFO”“グレイ型エイリアン”“学校の怪談フォーマット”“心霊写真っぽいフレーミング”など、誰もがわかる記号を表層で拾い、強デフォルメで回す。オマージュ(精読・再現)より、記号の即効性を優先している。

ただし“愛あるいじり”でもある

恐怖の効き目自体は捨てていない:怪異のルール設計は真面目。

信じる/茶化すの両視点を並置:当時のTVが持っていた“本気と茶化しの同居”を再演。
→ だから嘲笑ではなく、“敬意を保った距離化”。
理論的にはリンダ・ハッチオン系の「アイロニック・パロディ」に近い立ち位置。

つまり「ダンダダン」の作品構造上はネタ化された全ての過去コンテンツはパロディとして処理されているので
XJAPANの「紅」だけがオマージュであるというのは成立しないんですね。

作品が「オマージュ」として成立するためには絶対条件として

“畏怖と機能まで再現・更新しているか”

があって

記号を借りて笑いの燃料にする段階を越え、原典が持っていた情感・倫理・演出文法まで引き受けてアップデートできてると

「オマージュ」となります

これはパロディが下でオマージュが上という「優劣」ではなくて

パロディ作品とオマージュ作品の構造の「相違」です

逆に言うとダンダダンがオマージュ作品なら今のような作品としてのグルーヴは絶対に出ないし
これだけの人気作品になることはなかった。

だから上の謝罪が、もちろん外へ出すもので事態の収束用とはいえ
実際のところ「パロディー」のネタとしてX JAPANを処理したのに
というかパロディーのネタだからYOSHIKI氏側に話を通さなかったわけで
なかなかに姑息だし、そっかぁー僕がいまいちジャパニメーションを(ずーっと様々な作品を見て悪戦苦闘は続けてます!)
正確に位置づけられられないのってポップカルチャーの文脈で作られてないからなんだなぁーという気づきはありました

YOSHIKI氏のポストは犬笛だったのか??

当該ポストは既に削除されてしまっているので概要だけですが

もーーーう2次元側からは「器が小さい」「オマージュなんだから」で大炎上したわけですが
これもポップカルチャーにおけるYOSHIKIというキャラクターを全く理解してないことからきてて

ヴィジュアル系はそれまでの大前提だった社会の「器」のサイズに意義を唱えて
「器の小ささ=感じやすさ=エモーショナル」であるという旗のもとで制作されたコンテンツなので
その権化のようなYOSHIKI氏が器が小さいのは当たり前で確実に氏はファンに犬笛を吹きました

ただヴィジュアル系が日本のカルチャー史にもたらしたものはあまりにも巨大で
ジャパニメーションと並んでまだ完全には僕の中で完璧な位置づけができてないんですが
YOSHIKI氏の場合、氏はXの全盛期において自分が現在の年齢まで「生き続けてしまう」ということは
絶対に想定していなかったはずであり、その運命の歯車のズレ、他のミュージシャンであれば
向き合って作品化していかなくてはならない

「自己の加齢と作品性」

というテーマを避けざるをえなくなっている
その課題を先延ばしにしてしまっていることが氏の寡作化のコアにあるという現在への
いらだちがずーーーーーーーーーーーーーっと見て取れて、
でもYOSHIKI氏がそれをどのように作品化するのか?が日本のポップカルチャーにおける
ヴィジュアル系の「最終章」であるのは確実なので、その前に僕もこれまでのヴィジュアル系とはなんだったのか?の結論を手に入れたいと思っています。

優れたポップコンテンツはキミに告げている「信者になるな孤独者になれ」と

このイシューがひっかかったのは冒頭にも記したように今の社会・政治状況が
ポップカルチャーでは70年以上前から常に起こっていた「再宗教化」というテーマ
をとてもとてもとても遅れてトレースしていること
それがこの問題でも噴き出していることでした。

2次元側のヲタの方々はひたすらYOSHIKI氏関連を攻撃し続け
ヴィジュアル側のヲタの方々はアニ豚側を攻撃するという

「ザ・宗教化」

「信じるな、愛せ」——ダンダダンとXが叫ぶ孤独のバトルロマン

ポップの最前線に立つ者たちの断末魔が、最も無様な信仰の祭壇で晒されている。『ダンダダン』は70年代オカルトの亡霊を再起動し、『HUNTING SOUL』はYOSHIKIという神を模倣して爆発した。そこにあるのは、断じて宗教的帰依ではなく、“信じるな”と叫ぶ魂の跳躍”だったはずだ。にもかかわらず、今その周囲で渦巻くのは、「あれは侮辱だ」「いや愛だ」の二項対立を演じる信者のパントマイムだ。

ふざけるな、それは**“作品に背く”行為**だ。

ポップカルチャーとはなにか?
それは、他人と繋がるための道具ではない。孤独の戦士が世界と接触するための最小単位の装備である。アニメであろうと、ヴィジュアル系であろうと、ゲーム、ラップ、ボカロ、戦隊ヒーロー、エロ漫画、何だっていい。優れたポップは、いつだって**「信者になるな、孤独者になれ」とおまえに囁く。**

それが聞こえないなら、もう一度その作品を見ろ

その中に書かれていないか?

「盲目的に誰かを攻撃して得られる愛などない」と。
「他人の承認のために使い潰されるような物語は、愛とは言わない」と。

ポップは教義ではない。詩であり、風であり、たった一人のための応援歌である。
信じるな、祀るな、奉るな。
愛せ、孤独に、狂ったように、まっすぐに。

僕らが作品にポップカルチャーに触れるという事のコアがそこにあると思います

信者になるな!!を忘れた人々

Posted by nolongerhuman