合法とは、正義の通過点にすぎない。維新・藤田共同代表の公金環流疑惑の本質とは?
当アカウントはポップカルチャー考察の手法でポリティカルイシューの解説をし続けていて
繰り返しになっちゃいますがそれはなぜかというと
これまでも書かせていただいたように「政治の再宗教化」というビッグウェーブによって
ポリティカルであることが「POP」になったからであり
そうすると所謂「政治的視点」ではそのイシューの本質に辿り着けてないなぁーーと感じることが多々あるので。
そして話題の日本維新の会の藤田共同代表の公金環流疑惑に関しても
政治系メディア的な追求・解説がなんか「本質」をとらえ切れていないなぁと思い
このテキストを書いています。
つまりそれは「正義」とは何か?という問いです
目次
まず大前提として今回の件は「合法」
秘書(公設秘書)が代表の会社に発注すること自体は、直ちに違法とは言い切れません。
前提として、公設秘書は兼業原則禁止ですが、議員が「職務に支障がない」と許可し
議長への兼職届を提出・公開していれば“法的には可”となり得ます(国会議員秘書給与法21条の2等)。
議長への兼職届を提出・公開されていたのか?
提出は「あり」。 藤田氏本人が「初当選時から衆院事務局へ兼職届を提出している」と表明。
さらに、問題視された公設第1秘書についても**2024年11月19日付の兼職届の存在(年720万円の報酬記載)**が
報道側の照会文で示されています。
そして“公開”はネット公開ではなく、国会内での閲覧方式。
兼職届はウェブ掲載されず、衆議院内で閲覧可という運用です
(情報公開の対象だが写し交付は不可・原則は院内閲覧)。
つまり
藤田氏のケースは、
公設秘書の兼職届を正式に提出
契約も実在・対価も支払済み
制度上、形式的には合法の枠内
――という**「法令順守(コンプライアンス)」の側面では一応成立しています。
つまり「刑法」「政治資金規正法」「議員秘書給与法」などの条文上の“違反”は確認されていないということになります
藤田氏が体現する「維新的なるもの(=イシン的エートス)」
維新はそもそも、
「ルールを壊すのではなく、“ルールの内側で”既存の秩序を裏返す」
という政治スタイルをDNAとして持っています。
橋下徹が掲げた初期維新のロジックは明快でした。
「既得権益を壊すには、法律の外ではなく、“法律の内側”を極限まで使う」
つまり「法」を敵にしない。むしろ「法」を最大限に利用して、
倫理や慣習が守っていた“ぬるま湯”を壊していく。
これはまさにネオリベラル+破壊的合理主義の融合体。
今回の藤田氏も、形式的には法を守りながら、
その“隙間”に倫理的緊張を作り出してしまった。
これは偶然ではなく、維新的なるものの“運命的構造”とも言えます。
維新の特徴は、「法の正義」だけを絶対視する傾向にあります。
彼らにとって「違法じゃない」は行動の免罪符であり、
政治とは「スピード」「成果」「実務」で判断されるもの。
その一方で、「正義」「理念」「倫理」といった抽象的概念は
「古臭い」「情緒的」として切り捨てられる。
だからこそ、“維新的なるもの”は常に――
「正義なき適法」
という構造的リスクを抱えるのです。
「反エリートから新エリート」への転化
藤田氏はまさに、“維新が嫌っていたはずの権力構造”の再演をしている。
「身内優遇」「還流」「説明不足」――
これは彼らが批判してきた既存政治そのもの。
だが皮肉なのは、
維新の“反エリート性”が、
成功によって“新しいエリート性”へと変質していく点。
つまり、維新が「制度改革者」から「制度管理者」へ転じるとき、
その“制度の内側での抜け道利用”が、
もはや改革ではなく特権の再生産になってしまう。
藤田文武氏のケースはまさにこのパラドクスを象徴している。
維新的なるものとは、法を武器に倫理を解体する力。
そして、その力が制度に取り込まれた瞬間、
自らが批判した権力構造を再演してしまう運命。
それが――
**「改革」と「腐敗」が紙一重で循環する、“維新の宿命”**なのです。
法は「正義の骨格」であって、「正義そのもの」ではない
法は、人間社会が“最低限守らねばならないライン”を決めた制度的装置です。
だからこそ、法は常に正義よりも遅れて動く。
奴隷制・女性参政権・同性婚――どれも最初は「合法ではなかった」。
正義が社会に浸透して初めて法が追いつく。
つまり、合法=正義の最終形ではなく、
合法とは、正義の通過点にすぎない。
維新は、
「法の範囲で最大限動けば、それが正しい」
という制度内革命の信条を持っている。
それは強力で合理的。
だが同時に、正義の“温度”を下げてしまう。
法を信仰するあまり、倫理や情緒を「非効率」として切り捨てる。
この“冷たい合理性”こそが、維新的なるものの美学であり、同時に悲劇です。
つまり、彼らは「正義を壊すつもりはない」のに、正義が感じられない政治を作ってしまう。
藤田氏の「法的には適正」発言は、
維新のロジックそのもの――
“法が許すなら、それが公正だ”
しかし市民の感覚は違う。
「それ、ルール的にはOKでも、心情的にはアウトでしょ」と感じる。
つまり、制度としての正義と感情としての正義がズレている。
このズレが拡大すると、政治そのものが信頼を失う。
合法は“正義の外殻”でしかない。
正義とは、法の外側にある“共感のバランス感覚”である。
そして「維新的なるもの」とは、
常にこのバランスの端で、法を信じすぎて正義を見失う危うさを孕む存在――
だからこそ、今の藤田問題は、維新という思想実験の臨界点に達しているのです。
政治は「力をどう使うか」を決める技術であり、
正義は「力を使う理由」を問い続ける詩である。
国家はエンジンだ。
燃料は税と暴力。
だがそのエンジンが走り続けるためには、
**「なぜ走るのか」**という物語が必要だ。
それが「正義」である。
正義を語れない政治は、ただの走行音だけを響かせる車体。
維新のスローガンも、自民の伝統も、立憲の理想も――
それぞれの“正義の音”を失った瞬間に、政治はエンジンを止める。
もし「法」だけで世界を動かせるなら、政治家はいらない。
AIで十分だ。
だが政治が人間によって続いているのは、
法の外側にある「ためらい」「赦し」「希望」――
正義の余白を必要としているからだ。
正義を目指せば迷う。
だがその迷いこそが、政治を“人間の営み”に留める唯一の熱だ。
だから――
政治は今日も、正義という幻を追い続ける。
幻だからこそ、人はそこに希望を見いだす。
希望が残っている限り、政治はまだ詩でありうるのだと思います











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