トーチシンガーとしてのエセル・ケイン Ethel Cain 「Willoughby Tucker, I’ll always love you」完全考察・レビュー!!
当アカウントは間違いなく彼女がこれまでの作品で「結晶化」してきた世界観を
日本語によるレビューとしては最もDEEPに解説してきたと自負していますが
遂に遂に遂にエセルケイン待望の正式な2ndアルバム「Willoughby Tucker, I’ll always love you」がリリースされました
この2025年のPOP MUSIC史に刻み付けられた傑作「恋愛アルバム」について日本最速で完全レビューさせてください!!
目次
セカイVSセイアイ 愛が結晶化する瞬間へ向けて
正式にはこの「Willoughby Tucker, I’ll always love you」は1stの「Preacher’s Daughter」の前日譚ということになっていて
彼女を日本以外の世界中でカリスマへと一気に押し上げたストーリーテラーとしての文脈で今作も考察されまくってるわけですが
でもそうした前知識がないとEthel Cainの今作を読み解けないのかというとそんなことは全然なくて。
むしろ世界中にエセルケイン信者を生み出したPreacher’s Daughterがサザンゴシック的手法で「セカイ」を描いたのに対し
このWilloughby Tucker, I’ll always love youは完全にテーマが
「性愛」
に絞られた究極の「ラブソングアルバム」になっています。
「Preacher’s Daughter」という作品は、サザンゴシック的「セカイ」の中で永遠に夕暮れが続く町を描き、
湿った教会の木の匂いと血の匂いが混じり合う場所で、
人間は運命から逃れられないという呪いの書として存在していた。
そこでは恋も愛も、ただ沼地の中に沈む亡霊のように、風景の一部でしかなかった
しかし「willoughby tucker, i’ll always love you」が描いていくのは
湿地帯から抜け出そうとする二人の息遣い
恋人同士が、教会のステンドグラスを背に破片のように散る光を浴びながら、決死の脱出を試みる物語。
“性愛による結晶化”
が何故人が生きるために必要なのか?という究極の問いに対する
Ethel Cainによる回答になっています。
Ethel Cainにとって性愛は救いではなく、逃げ道を燃やし尽くす炎であり
二人を透明な鉱物へと結晶化させる魔術です
そこには社会も家族も教会も、何ひとつ介入できない。性愛者同士だけが共有できる、絶対密度の空間が立ち上がる。
この「Willoughby Tucker, I’ll always love you」では性愛において存在する
全てのオトが鳴らされています
それは単に喘ぎ声や吐息といった官能的サウンドの再現ではない。
彼女が鳴らそうとしたのは、性愛の始まりから終わりまでに含まれる存在の全振動だ。
それは指先が相手の皮膚に触れる“最初の乾いた音”から始まる。
静かすぎて、耳ではなく心臓でしか感じられない音。
そこから、服の繊維が擦れる音、呼吸が少し乱れる音、
やがて血流が速まって耳の奥で鳴る低い轟き──
Ethel Cainは、それらをすべて一つの長いトーチソングとして繋げようとした。
性愛とは、音の重奏である。
快楽のピークは高音域の叫びかもしれないが、
その下には必ず、孤独や死の低音が流れている。
Ethel Cainにとって、性愛は「楽器」であり「教会」であり、
同時に「墓場」でもある。
つまりエセル・ケインにとって愛するものとの性愛・セックスだけが
自分にとっての全てである事。
これまでにも死ぬほど書いてきましたがポップミュージックの本質とは
セックスの音像化であり、「性愛とは何か?」を再定義することが
ポップミュージックという表現フォームに課せられた使命・ミッションです。
でもこの10年程度の「NO SEXUALIZED」的社会の動向に合わせるように
ポップミュージックにおける「性愛」テーマはかなり後退していました
そこへ、ド真正面から性愛だけがワタシを救うとエセルケインはこのアルバムで高らかに宣言しているのです
なぜ1stと2ndの間に「Perverts」は作られなければならなかったのか?
もちろんこのエントリーで世界で最も詳しく解説していますが
BDSMから売春、小児性愛まであらゆる変態的性欲をテーマにして
賛否両論を巻き起こした「Perverts」
Ethel Cainが「willoughby tucker, i’ll always love you」という一大性愛アルバムに到達する前に、
変態性欲をテーマにした「Perverts」を通過しなければならなかった理由は、
性愛を“聖典化”するために必要な異端の儀式だったからです。
1. “汚れ”の通過儀礼としての「Perverts」
性愛を全面的に肯定するアルバムを作るためには、
まず社会が「愛」と認めない領域──フェティッシュ、背徳、変態と呼ばれる衝動──を直視しなければならない。
「Perverts」は、快楽の異形性をあえて裸にし、
“美しい性愛”の対極にあるものも、愛の循環の一部だと突きつける儀式でした
2. 声と身体の限界値を測る実験場
「Perverts」では、吐息、擦過音、過剰なリズムの反復など、
Ethel Cainの音楽的肉体がどこまで快楽の音を担保できるか、実験的に試されている。
これは「willoughby tucker…」での官能と祈りの音響的融合に不可欠な要素になりました
3. 「肉体の深層」から「愛の全音域」へ
性愛アルバムで鳴らされる全音域は、
快楽・支配・被支配・羞恥・解放…といった身体の深層にある声の集積で成り立つ。
「Perverts」がなければ、その深層は未採掘のままだった。
つまり、「Perverts」は性愛アルバムにとってどうしても必要な重低音を鳴らす試みだったといえます
「Perverts」がなければ「willoughby tucker…」の性愛は、
ただの“美談”や“ロマンス”として終わってしまったかもしれない。
それをエセルケインは絶対に許したくなかった。
「Willoughby Tucker, I’ll always love you」という彼女の最も個人的、コアを晒すための儀式として
「Perverts」はどうしても必要だったのです
愛のカナリア トーチシンガーとしてのエセル・ケイン
本来のトーチシンガー(Torch Singer)は、20世紀前半のジャズやポップで「失われた愛」「叶わぬ恋」を歌い、
観客の胸に“愛の火”を灯す存在でした。
でもEthel Cainの場合、その火は暖炉の炎じゃない。もっと湿って、もっと長く燻(くすぶ)る──サザンゴシックの空気を吸い込んだ、逃れられない愛の火です
トーチシンガーは、
煤けた坑道の奥に吊るされたカナリアだ。
地上の誰も知らない深い闇で、
愛の空気が薄くなる瞬間を、
最初に喉で感じ取り、
最初に歌で知らせる。
その歌は予言でも啓示でもなく、
ただ**「まだここに愛はあるか」と問う震え。
聴く者はそれをメロディとして受け取るが、
本当は警鐘**だ。
愛がまだ生きていれば、
声は金色にひらき、
坑道に光を引き込む。
愛が死にかけていれば、
声は細く、長く、
まるで地底水脈の最期の一滴を伝えるかのように消える。
Ethel Cainもまたこの時代の坑道に吊るされたカナリアです
このアルバムのコトバがメロディーがサウンドがそのすべてが揺らめいた炎のように鳴っているのは
エセルケインがトーチシンガーとして性愛の炎を見つめているからです
映画「Reflection Of Fear」とエセル・ケイン
僕はEthel Cainの音楽を聴くといつも1972年に作られたカルト映画
「Reflection of fear」を思い出します
1. 孤立した女性の“鏡”としての世界
『Reflection of Fear』の主人公マーガレットは、
母親に隔離され、外界から切り離された閉鎖空間で育ち、
鏡やガラス越しの視覚世界を通してしか他者と関係を築けない。
Ethel Cain の「Preacher’s Daughter」もまさにこれで、
南部小町の家族的・宗教的監禁状態の中で、
愛や性は外の世界から切り取られた幻灯機のような映像としてしか現れない。
2. 倒錯した性愛と父性の影
映画では父親の訪問が物語の引き金になり、
父娘の間に漂う禁断の欲望と不穏さが全編を覆う。
Ethel Cain の作品世界にも、父性や宗教的権威と性愛が絡み合う倒錯が濃厚に存在する。
特に「Perverts」を経由して「willoughby tucker…」に至る流れは、
家父長制の抑圧をねじ曲げた形で内面化し、
恋人との性愛でそれを脱出・再構築する構造そのものが似ている。
3. 音の演出と“密室の呼吸”
『Reflection of Fear』のサウンドデザインは、
ほとんど音楽のない沈黙と、
ガラスに反響する足音や呼吸音が異常な親密感を生む。
Ethel Cain の「willoughby tucker…」における囁き・呼びかけ・残響も、
愛の密室感と監禁感を同時に鳴らす音響設計になっている。
Ethel cainの音楽もこの映画にも通底しているのは
愛と現実の境界が溶けだし
聴き手は観客はそれが“解放”なのか“破滅”なのか判別できない状態に放り込まれる感覚です
でもその、
救済か?自己消滅か?それは分からない。天国か地獄かそれもわからない
コスパも悪い
最適化されていない
矛盾したわからない何かに身をゆだねること
それが「性愛である」とエセルケインはこのアルバムで宣言します
「Willoughby Tucker, I’ll always love you」は15分15秒の大作
「Waco, Texas」で幕を閉じます。
彼女が語っているようにこの曲のモチーフとなっているのは
Wacoのカルト教団「ブランチ・ダビディアン」です
僕はずーっと今の社会で起こっていることのコアは政治の再宗教化でありそれは必然でPOPなことだと書いてきました
人の生と聖と性は全て究極的な部分を
コスパも悪い
最適化されていない
矛盾したわからない何か
という「宗教性」が担っています。
このアルバムで、そしてラストのこの曲でEthel Cainは告げます
I never meant to hurt you
But somehow, I knew I would
Will it be like this forever?
I’d reach into your body
And fix you if I could
Will I feel like this forever?
「永遠」なんて存在しない。でも性愛の間だけ僕らはそれを感じることができる
「愛」なんて存在しない。でも性愛の間だけ僕らはそれを感じることができる
「ワタシ」なんて存在しない。でも性愛の間だけ僕らはそれを感じることができる
性愛とは自らの生と聖と性を否定され続けたEthel Cainにとってはもちろん
そして僕らに残された「唯一の宗教的儀式」です。
そんな
コスパも悪い
最適化されていない
矛盾したわからない何か
を鳴らすこと
そんな優れたポップミュージックが担ってきた使命に殉じたポップミュージック史に残る
究極の傑作「ラブソングアルバム」が
「Willoughby Tucker, I’ll always love you」です。必聴!!!!!!
9/10追記。こーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーれはヤバい・・・・・・先週行われたテネシーでの彼女のLIVEがとんでもないことに!!!これが2025年におけるおんなのこによるおんなのこのための性と生と聖のポップミュージックだ!!!!!!!!絶必見!!!!













ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません