日本のアイドル史に残る画期的なインタビュー!! INIの許豊凡氏の「グラビア観」から考えるセックスとポップミュージック
僕はほぼ10年前から
とにかくJPOPはKPOPから学ぶことで
ポップミュージックという魔法を取り戻さなくてはならない!!
とあらゆる媒体で書き・話してきて、よーーやく、よーーーーやく
それは1960年代におけるTHE BEATLESを「お手本」とした日本のグループサウンズブーム
と同じように
とにかくKPOPを「お手本」として、謙虚にその圧倒的POPNESSを真似つくす!!というこの2-3年のムーブメントは
評価していて、その中でもINIのWMDA(Where My Drums At)は最も優れたPOP ANTHEMの一つだと確信しています。
そうした認識の上で先日、おーーーーーーーーーーー!!と思ったのがINIのメンバーである許豊凡氏のインタビュー
これがとてつもなく凄くて、それは先日僕も「アイドルとグラビア」の関係性について
グラビアカメラマンの立ち位置から決定的なテキストを書いたばかりですが
この「アイドルとグラビア」イシューとはほぼニアイコールで
ポップミュージックとは何か??
という命題そのものであるということは今まで死ぬほど書いてきましたが
今一度、許豊凡氏のインタビューを参照しつつメッセージを送りたいと思いました。
目次
女性アイドルによるグラビアは性的搾取なのか?
繰り返しになりますが、この記事でも書いたように
肌露出の高いグラビア・写真集は確実に性的搾取です。
でもそれは許豊凡氏のいうようにフェミニズム的視点から捉える「搾取」ではなく
AKBや乃木坂関連に代表される秋元康氏的「女性アイドル」においては
メンバーのおんなのこたちの「性」を楽曲に生かさないという「搾取構造」
そのポップミュージックの作り手としての「怠慢さ」「強欲さ」こそが「搾取」であるというのが僕の考えです
何百回と書いてきましたが優れたポップミュージックとはセックスを抽象化したものである
現在のKPOPにまで至るポップミュージックのフォーマットは今から70年以上前の1950年代に作られました。
その根本的な定義とは
優れたポップミュージックとは限りなくセックスのシュミラークラである
ということです。
KPOPがここまでグルーバルなムーブメントと化し、ポップミュージック史として俯瞰した時に
間違いなくBTSがTHE BEATLESと同じ位置を占めているのは
KPOPが1950年代のR&Rを経て1960年代にTHE BEATLESによって爆発する
「僕らが私たちがセクシャルであることの意味」
をその音にコトバにメロディーに落とし込むというポップマナーに徹底的に準じて
ポップ=セクシャル
という命題を世界中の音楽の中で唯一精緻に追求したからに他なりません
なぜ女性アイドルはグラビアをやるのか??
日本において、グラビアをやりMVもつくりそのうえAVもやっているのは僕だけで
これまでに何百人というおんなのこ達を僕は撮影してきました。
そんな中で「こじらせ女子」というタームの生みの親でもある、亡くなった雨宮まみ女史にインタビューしていただいたときに
「AVでもグラビアでもおんなのこを撮るっていうのは僕にとって素敵なポップミュージックを聴きに行くってこと同じなんです」
と力説したら
「どんなけロマンティストなんですか!!!!!」
と爆笑されましたが、でもやっぱり僕は
「おんなのこはセクシャルであることと戯れることができる」
奇跡そのもの、つまりポップミュージックが実体化した生き物が「おんなのこ」だと思っています。
男子と性の関係性は思いっきり「牢獄」です・・・・・・・・
僕らは明らかに社会化されてしまった自らの根源的な欲望の残骸にしがみついて
本当の性と聖と生
を渇望しつづけている・・・・・・・・・
でもおんなのこがおんなのこであることに誠心誠意準じた時、
そこに生まれるのは「性的自由」です。
これまでにも死ぬほど書いてきましたが、そんな
おんなのこがおんなのこであることの性的自由の有り様を
執拗に描いてきたのが1970年代に爆発した「PSYCHOTIC WOMAN」映画群です
フェミニズムという「論理」に準じるなら、そうした「戯れ」は
強要されたうえでの逃避行動にように思うかもしれません
でも僕にはそうした自らを「論理」で規定するというのは逆にとてつもなく「男性的論理」であり
何百人というおんなのこたちの生と聖と性をRECしてきた人間からすると
おんなのこが自らのホントウをさらけ出した時には、ほぼ確実に
「論理」を捨て去ってしまう。
それはこのところずーーーーーっとこのサイトで書いていることですが
「内発性」や
ケインズの言う「アニマルスピリット」と同じものであり
僕は基本的に撮影現場ではアイテムだけを用意しておんなのこに好きなように動いてもらってそれをRECするだけですが
そうするとおんなのこたちはテイラースウィフトのように
サブリナカーペンターのように
「性的に自由」そのものになっていきます。
本当のグラビアとはおんなのこを自由にするものなのです
許豊凡氏は女性アイドルによるグラビアは「強要」や「権力勾配」によるものでは??という問題提起をされいらっしゃいますが
はーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっきりいってそういうゴミみたいなグラビアもありっます!!
でも「優れたグラビア」とはそうしたゴミコンテンツとは違います
そのことはこの記事でも書いていますが
そのおんなのこの「ホントウ」という
永遠と一瞬
をファインダーに焼き付ける行為
それがグラビアです。
だから本当のアイドルコンテンツにおける問題とは
そうした「性という自由」を楽曲に生かさない、取り込むことができないというJPOPの宿命的問題なのです
実際の「グラビア」を例にどれだけグラビアというアートフォームが劣化したのか?を検証
このテキストを書いているときにドBINGO!!!なタイミングで
僕も敬愛するフリーアナウンサーの刈川くるみ様の青年漫画誌における第二弾「グラビア」が解禁になりました
このグラビアの成立の仕方を製作者側から読み解いてしまうと
彼女の第一弾グラビアはやはり同じ雑誌での「海外ロケ」でした
刈川くるみというおんなのこがここまで注目されたのは彼女が女子アナ的存在であるのに
「巨乳」である
というザど真ん中で松本人志氏や中居正広氏による「性加害」案件を引き起こした
そしてそうしたキモすぎる欲望がなぜ生成されたのかについては
この記事で書いていますが
そうした関係性の中でクローズアップされての「グラビア」なんですが
でも!!!!!! でも!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ここがFAKEなグラビアと「ホントウ」のグラビア
極めて日本的なマナーにおける「グラビア」文化は1970年代に
それまでヌードをアートとして撮影してきた
篠山紀信氏
荒木経惟氏
加納典明氏
といったレジェンド写真家の方々によって先導された表現革命の一つでした。
それは1960年代の学生運動革命が完全に挫折し
おとこのこの「聖と生」が行き場をなくして地獄化していた時に
最後のサンクチュアリとして「性」がフォーカスされたこと
それが「グラビア」としてPOP化されたのです。
そうした歴史観を踏まえれば。実はだーーーーいすきな刈川くるみ様の「グラビア」の仕上がりにもメッチャ不満だったりします!!!
精緻に読み解いていくと第一弾のグラビアではほぼ彼女に求めらている肌露出、その巨乳感を想起するカットはないわけです
でも第二弾の今回は海外ではなく「金沢」ロケ
金沢には彼女が自身のインスタで「表向き」発信している「アート好き」というキャラクターに即した
金沢21世紀美術館があり
それをフックとして第一弾では晒されなかった「巨乳感」の演出に踏み込んでいます。
それは彼女が属する「セントフォース」という唯一無二の芸能プロダクション
アイドルでもなく女優でもない、今最もおとこのこにとってPOPなのは「女子アナ」という「記号」だ!!!!!
という事態にいち早く気づいて、そこにマネタイズの全てを全振りした天才的プロダクションの意向に沿ったムーブなんですが
でも!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
これって1970年代に起こった「グラビア革命」のテーマから言えば完全に「間違っている」んですよね
僕が刈川くるみチャンっていうおんなのこに注目したのは彼女がここまで注目される前にINSTAにアップしていた
幾つかのkpopダンス動画なんですよ!!
これでわかるのはヤンマガさんのグラビアのコンセプトになっている、そしてセントフォースが打ち出したい
刈川くるみ=癒し系
というのは「嘘」で
ホントウの刈川くるみという女の子はKPOP的な
性と聖と生がこんがらがった
極めて「POP」なおんなのこであるっていうことなんです。
であるならばグラビアはそんな彼女の「ホントウ」を撮らなくてはならない
でも2020年代においてはそれが不可能になってしまった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それはひとえに作り手側の、この記事で書いたような「アニマルスピリッツ」の
「内発性」の喪失という病理なのです
許豊凡氏による「グラビア批判」は、なぜ今のZ世代がアセクシャルを表明するのか?
に直結しています。
それは日々望みもしないのにアルゴリズムで強制的に見せつけられる
エロ表現がゴミすぎる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
だったらエロ=ゴミじゃね
というのはメッチャわかります
でもそれはポップコンテンツの本質をとらえきれていない
正しくエロを作ることは出来る
正しくポップであることを考えつくせばそれはイコール正しく性的であることである
許豊凡氏による「グラビア批判」は実はメチャクチャイコールで今のJPOPにおける
「アセクシャル」コンセプトの欺瞞をも告発しているのです
ほんとうにJPOPはアセクシャル化しているのか?
現在ボカロ系楽曲を筆頭に、KAWAII LAB系もですが
JPOPが「アセクシャル化」しているといわれています
リンクした評論集は僕も拝読しましたが、全くポップミュージックの本質を捉えていなくて絶望しました・・・・・
だって既に一億回近い再生回数となっているDECO*27氏の「モニタリング」なんて
アセクシャルどころか
「キミと性的に繋がれないことへの慟哭」
でしかないじゃないですか???
明らかに間違っているのは何度も繰り返しになりますが優れたポップミュージックは常に
セックスのシュミレーションとしてのグルーヴ・メロディー・コトバを更新し続けてきました
KPOPが2025年現在、世界で最も優れたポップミュージックになりえたのは何度も書いてますが
セックスとは何か?という命題に対しポップミュージックとしてどこまでもどこまでも誠実に向き合ったからです
INIの許豊凡氏による女性アイドルとグラビア論は日本のアイドル史上はじめてといってもいい発言で
心よりその勇気を称えたいと思います。
でもなぜINIのWMDA(Where My Drums At)は彼らの現時点で最も優れたPOP ANTHEMになったのか?
このWMDA的な世界観を何故追及できないのか?ということを考えた時
ポップミュージックとは性的であること=自由であること=おんなのこ的であることとは
「理論」から逸脱していく「内発性」にこそその本質があること
いみじくも太宰治が書いた文学史上最も優れた「おんなのこ=アイドル論」でもある「女生徒」的
おんなのこが自らの性的実存にDIVEしたときに何が起きるのか?を映画史上最も残酷に描き切った
映画「小さな悪の華」のエンディングのような
揺らぎ=グルーヴ、それはイコールで優れたポップミュージックとしてのセンシュアルさを
正しくプロデュースし楽曲に反映することができるのか?
それはつまりINIが本当のKPOP的
「セクシャリティー」という「自由」
を手に入れることができるのか??
という許豊凡氏自身の表現の有り様にも直結していきます
もちろんINIは吉本コンテンツだから・・・・・・・そこまで突き詰められるのか・・・という想いはありますが
でもやるしかないよね




















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