“A FREAKO IS NOT A R.I.C.O” NETFLIXドキュメンタリー「ショーン・コムズ:裁きの時」徹底レビュー
これは途轍もなく面白かった!!!
NETFLIXのドキュメンタリー「ショーン・コムズ:裁きの時」
アメリカにおけるHIPHOP界のみならず今年の全米を席巻した裁判ですが
濃いHIPHOPヘッズ以外には日本ではあまり話題になってなくてこの作品の重要性が
伝わりにくくなってるなーと思い書いています。
目次
Puff Daddy → P. Diddy → Diddy → Love…. POPMUSIC史におけるショーン・コムズとは?
基本的なところでは2025年のというか
ショーン・コムズのHIPHOPアーティストとしての役割は20年前!!に終了しているので
それが日本ではわかりにくいわけですが
1990年代後半から2000年代アタマにかけて彼が作り上げたポップミュージックとは
この代表曲2曲に集約される
missing youではPOLICEの「EVERY BREATH-」
come with meではLED ZEPPELINの「カシミール」
本来のHIPHOPアーティストなら
シャバすぎて
絶対にやらないような大ネタを臆面もなくSAMPLINGして使うという
でもそれは射殺されたノトーリアス・B.I.G.への「鎮魂歌」というmissing youという楽曲の役割には完璧な
そして映画ゴジラのテーマソングというcome with meの役割には完璧な
作り手のというより聴き手が欲するものを鳴らすというポップアーティストとして正しすぎる「編集力」を持っていたから
彼はポップスターになりました。
でこのドキュメンタリーではそんな時代の寵児となったコムズの裏には
これだけの犯罪の疑惑と間違いない性暴力があったんだということを
ここが凄いんですが、なんと逮捕直前までコムズに密着して映像を撮り続けた素材を
一体全体どうやってかはわからないけど手に入れてそれを証明しようとしています
ホテルの鏡に何度か撮影者である白人が映りこみますがその人だけモザイクがかかるので素材の流出者は・・・

ほんとーーーに次から次へと何十年にもわたる内部映像素材が使われまくるところが圧巻!!
でもこのドキュメンタリーのそうした本質とは別のところでこの「ショーン・コムズ:裁きの時」が
ポップミュージック史的に面白いのは
ポップミュージックをポップミュージックたらしめるのは「音楽以外のノイズである」という皮肉で
でも圧倒的事実です
A FREAKO IS NOT A R.I.C.O 異常者しかポップミュージックは作れない
この裁判では「A FREAKO IS NOT A R.I.C.O」というスローガンがミーム化しました
「変態野郎(FREAK)だけどRICO法(Racketeer Influenced and Corrupt Organizations Act)を犯した組織犯罪者じゃない」
莫大な裁判費用をつぎ込んでコムズが起訴された組織犯罪容疑では無罪を勝ち取ったことで終身刑は免れたことを意味する
コムズサポーター達のスローガンなんですが
このドキュメンタリーでパフダディが完全にセックス依存症の変態性欲の持ち主だということが多くの証言と映像で明らかになります。
この作品は長年コムズと敵対するラッパーである50CENTがプロデューサーなので
物凄くシンプル化すると
こんな変態野郎の息の根を止めてやる
というナラティブになっていて
こんな性暴力野郎なんだから組織犯罪にもかかわってる"はずだ"
という作りにもなっています。
ただ!!! 判決がそうだったように、僕自身もこの膨大な素材映像を見て
コムズは見事に変態で性暴力者だけど組織犯罪者タイプじゃないと思います。
でここがポップミュージックの奇跡でもありデーモン・闇でもあるところですが
このサイトでは何度も言及しているようにこうした
境界を踏み越えたもの
しかポップミュージックは作れないんですね。
『ショーン・コムズ:裁きの時』が暴露しているのは、単なるスキャンダルではない。
それはパフ・ダディという男の変態性欲や性暴力の告発であると同時に、もっと残酷で、もっと本質的な真実だ。
――ポップミュージックは、FREAKにしか生み出せない。
この作品が突きつけるのは、
「成功した男が道を踏み外した」という安易な転落譚ではない。
むしろ逆だ。
踏み外したからこそ、あそこまで行けたのではないか?
という、聴く者にとって最も不快な問いを投げてくる。
パフ・ダディは、最初から“安全な欲望”の住人ではなかった。
誇張、過剰、支配、演出、誇示。
ヒップホップを「音楽」ではなく巨大な快楽装置として編集した男。
そこでは音は手段であり、欲望こそがエンジンだった。
このドキュメンタリーが映し出すのは、
一線を踏み越えた個人の逸脱ではない。
ポップミュージックというシステムが、どんな人間を“選び、増幅するか”
その冷酷なアルゴリズムそのものだ。
清潔な精神?
節度ある人格?
そんなものから、世界を揺らすポップは生まれない。
歴史が証明してきたのはいつも逆だ。
誰よりも大きな欲望を持ち
誰よりも境界を壊し
誰よりも「自分が神だ」と信じた者
そういうFREAKだけが、
時代の音量を限界まで上げてしまう。
『裁きの時』が残酷なのは、
パフ・ダディをモンスターとして切り捨てない点にある。
彼を“例外”にしない。
むしろこう囁く。
この男は、ポップミュージックが
自らの欲望を託して作り上げた
最適解のひとつだったのではないか?
だからこの作品は、告発であると同時に
逆説的なポップミュージック論のドキュメントになる。
ポップとは何か?
それは癒しでも、善でも、救済でもない。
社会が抑圧してきた欲望を、
たった一人のFREAKに背負わせ、
音と映像に変換する装置だ。
その装置が暴走したとき、
私たちは初めて気づく。
拍手していたのは誰か。
再生ボタンを押していたのは誰か。
『ショーン・コムズ:裁きの時』は、
彼を裁く物語に見せかけて、
実はポップミュージックそのものを被告席に座らせている。
そして観終わったあと、
最も不穏な余韻だけが残る。
――それでもなお、
ポップはFREAKを必要とし続けるのではないか?
というポップミュージックの不穏な本質を暴いたのがこのドキュメンタリーだと思います











ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません