脚本の種 女体と男体 性的消費2020

脚本性的消費


最近「脚本の種」として興味深いなぁ・・・と思っているものに
フェミニストの方々と2次元系ヲタの方々による
身体表現を巡る対立というのがあります。


僕はプロフにも書かれているように
長年グラビアやイメージビデオのカメラマン・ディレクター・プロデューサー
をやらせていただいてきて多分今までに500人以上のおんなのこコンテンツ
を制作してきた人間で、正に「性的身体」ビジネスのど真ん中だったりします。
そんな地点からどちら側の主張とも違う視点で
「性と身体」をずーっと考えてきたので
そのあたりの事を短く論考しようと思います。

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沙奈絵ちゃん

でもこれだけ「若者のセックス離れ」とか言われているのに
このテーマはずーっと活発ですね
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人間失格

いや!ぶっちゃけのところ実感としては全然「離れ」なんか起こってなくて
みんな性・女体・男体には興味津々のままなんだと思うんだニャー

カラダとココロとエモとエロ

性的な「エモさ=エロさ」(触りたい・距離を縮めたい)を何故女体や男体を含めた
様々な身体的表層が引き起こすのかはやはりグラビア等をやっていると最大のテーマなので
本当に「身体」という情報は面白いです。
今回はあまりにも膨大になってしまうので
女体と男体に絞っちゃいますけど
「聖なるズー」のように動物の身体に性的エモ=エロさを覚える人もいれば
フェチシズムのようにイメージが発している意味性を拒否して
自らの内部で生まれた意味でイメージを満たさないと
エモ=エロ状態に至らない方々もいるわけですが
でも全ては「身体イメージ・身体というシェイプ」が、何故
性的な衝動を引き起こすのか??
という不思議に行き着きます。
そして老若男女問わず様々なカラダを撮影してきた僕にとって
何故身体イメージ・身体というカタチが性的なのか?
という問いに対しての現時点での答えは

「身体というシェイプはその人の内面のカタチをなぞっているから」

です。

性的身体が擦るカタチ

これ多分わかりにくいと思うのでちょっと詳しく説明させていただきます。
所謂しょうもない定型文ですけど
「カラダ目当て」みたいな言い回しがあるじゃないですか?
このフレーズは言い換えると「ココロとカラダは別物でカラダだけを
消費しようとしている」っていう申し立てな訳でMETOO案件なわけですけど
でもグラビアやイメージビデオを撮影していて
「決まったーーーーー!!」と思う時、つまり最も性的なイメージが撮れた
と思う時っていうのは撮る側も撮られる側も
その人自身の秘めている内面が身体というカタチに現れた時なんです。

ダメなグラビアとは?

例えばダメなグラビアってのがあってこれはただそこに
オッパイがあるとかヒップがあるとか「モノとしてのシェイプ」しか
写っていない場合ってのが、もうこれは技術論にもなっちゃいますけど
諸々の事情でそうなってるんでしょうけどこれはエロくもエモくも
なんもない、つまりちゃんと「身体」が写ってないわけです。
いや!巨乳とかパンチラとかしか写ってないものに欲情してる人は多いじゃないか?
とクレームする人もいらっしゃるかもですが、モノとしての巨乳に
性的に欲情する人は前述したようにフェチシズムの人なので
世の中の巨乳好きって方々はやっぱり「オッパイ」というシェイプが
身体としてその女の子の内面のカタチと相似形になっている時に
エモ=エロを感じています

というかそういうグラビアになってないと人気が出ません。
不可知なものに「カタチ」が与えられた時
人はそのカタチに触れたいと思い
そのカラダを性的であると認識して欲情するのだと思います。

撮影者と被写体それぞれの技術論

とこう書いてきてもまだ反論があるような気がします。
それは「いや、その身体イメージや身体のシェイプがなぞっている内面のカタチ
を無視して、自分の身勝手な内面をダブらせて消費・搾取している人達がいるのだ」
というクレームです。
これに関しても二つの捉え方がグラビア的にはあるんです。
一つはさっきも書いたような作り手側の技術力の問題
身体をモノとしてのシェイプにしか撮れなかった場合、そのイメージ
の受け手はそこに写っているべき内面という意味を補うために
自らの内面を持ってくるしかない。
ちょうど不味いラーメン屋さんに当たってしまった時
コショウだのラー油をかけてなんとか味を誤魔化して食べきるみたいな感じな訳で
そりゃ作り手の技術・腕前がないわけです。
そしてもう一つは写り手側の技術力の問題。
ただボーッとそこにいるだけで身体イメージと内面が相似形になる
って事は起きなくて、カメラの前でも自分をさらけ出せる「胆力」が
被写体さんの方にないとそこにはやはりモノしか写らない・・・・・・・
つまり、もしその身体表現において性的消費とか搾取的
構造が発生するなら、発生しているように誰がが感じてしまうなら
それはそんな自己満足を許してしまった作り手の技術がないんです。

だからなまじっか中途半端な技術のグラビアより例えば子供達の方が
無意識のうちに内面がストレートに身体に出てきていて性的表現としては優れている
場合もあると思います。
というか極論すると年齢を経るにつれ身体と精神が乖離していく事が
大人が性的表現を必要とする理由なのです

性的身体という音楽

だから「性的な身体」っていうイメージが発生するためには
ホントあらゆる面において「匠の技」が必要なんですが
二次元側の方々もフェミニズム側の方々もその「技」の成立のさせかたがわかって
らっしゃらないような気がします。
例えばこの「身体イメージの制作」を「音楽制作」に置き換えてみます。
二次元側の方々が作り出す「身体」はかなりヘヴィメタル的です。
ありえない巨乳感はギターの早弾き的どや顔テクニック披露的で
ありえないアヘ顔はひたすらデスボイスでマウントする大雑把さと同じです。
翻ってフェミニズムの方々が唱える「身体」は軍歌的です
しなやかさに欠けた教条主義は「敵は幾万」のようですし
自らの性を開陳しない秘密主義は街宣車から爆音で流れる「同期の桜」的です。
どっちもPOPじゃないなぁと思います。
このブログではポップ・ミュージックについていつも書いていて
POP=ギリギリの内面の音像化と定義付けているわけですが
素晴らしいPOP MUSICであればあるほどダンスミュージックの身体性
とエモーションが相似形を為してセクシャルになっていくように
身体も本来のカタチになればなるほど性的にエモ=エロくなっていく
つまりポップになっていく
わけで、両者の性的身体に関する
表現そして言説はメタルと軍歌で全くポップ・ミュージックとして機能していない。
POPである性的身体の本質を捉えきれていない人達に
エロ=エモな表現の事とか語れないのになぁー
時代に沿った女の子コンテンツをポップにどう鳴らすか・見せるか?
で作っている僕にとってはどちらも踏み込みが甘くて残念だなぁと思うのです。

まとめ


僕が偏愛するカルト映画「LAURA」にはこんなシーンがあります。
盲目となった彫刻家に自らの身体を捧げる少女LAURA
そして彫刻家は彼女のカラダのシェイプと感触によって
自らの死を受け入れていく

彼が触れたのは「モノ」ではなかった
彫刻家はその美しい曲線にその柔らかな手触りによって
死を超えた「何か」に触れてしまった
ここには性的身体がもつ究極の役割が表現されています。
その「何か」、決して目には見えないインナースペース
を実体化したものが他者の身体、性的身体なのです。
僕らXR脚本家が脚本によって描かなくてはならないもの
それは人間関係でもなく物語でもない
この曲線と手触りが導く神秘の在処なのです。
「無敵の人3.0」はそのような脚本として書かれていますので
是非、参考にしてみて下さい。

今回も記事を読んでいただき誠にありがとうございました。

性的消費

Posted by nolongerhuman