脚本とは 鈴木清順的空間移動の事である
・XRなストリーム映画の先駆者だった鈴木清順
について書いています
このブログでは「SAVE THE CAT」やシド・フィールドの脚本本には
書かれていない2020年代、新しい時代・XR時代のための脚本術をお伝えしていますが
そんなXR脚本術の偉大な師匠、鈴木清順作品における脚本の在り様を
解説させていただきます。
逸話が伝説になってますよね
百科事典くらいの厚みになった脚本を使ってたらしいけど
撮影が終わったらさっさと全部焼いて捨ててたってたっていう・・・・(泣)
くぅーーーそれを読んでみたかったニャー!!
ストーリーと鈴木清順映画
僕が最も敬愛する映画監督はDavid Lynch、Jean Rollin、そして
鈴木清順監督なので鈴木清順作品に関しては今までも言及してきましたし
これからも色々と書かせていただくと思いますが
こと脚本、映画における物語とは何か?を考えるにあたっては
あまりにも有名な日活解雇事件というのがありました。
この事件によって鈴木清順監督は10年間映画を撮ることが
できなかった(その間はCMディレクターとして名を馳せる事になります)
わけですが、これが何故起こったのか?
煎じ詰めると清順監督は
「ストーリーがわからない(難解)」
という理由で監督&脚本家失格とされたわけです。
ストーリーを殺そうとする「磁場」の正体は?
「ストーリーではなくストリーム」こそが新しい時代の脚本の
要と標榜するXR脚本術にとっては正にBINGO!の事件で
そのメチャクチャなストーリーとされた作品が「殺しの烙印」でした
しかし近年ではよく言われる事ですが
実はこのBRANDED TO KILLこと殺しの烙印、鈴木清順監督を
含めた複数の脚本家グループ名である「具流八郎」名義ですし
時代が時代(1967年という政治とアートの季節)という事もあって
EXTREMEなシーンはいくつかありますが、
実は物語は単純明快、
「誰が一番の殺し屋か?」
で殺しあうストーリーであり難解でもなんでもないんです。
しかし1960年代後半の所謂「清順美学」がスタートした日活作品から
復活を遂げた大正三部作、そして最後の作品となった
2005年の「オペレッタ狸御殿」まで、
鈴木清順監督による一貫した
「ストーリーを殺そうとする磁場」がこの殺しの烙印にも
強烈に働いている事は確かです。
その磁場を生み出しているもの、鈴木清順作品において
ストーリーとは別に画面を堂々と横切っていくストリームを発生
させているのは間違いなくアクションが起こる場所・空間の設定です。
元々「清順美学」として僕等を魅了し続ける鈴木清順作品の
最も大きな特徴は「あり得ない空間」でした。
ストーリーには不必要/ストリームには必要な空間
“仙人"清順監督に言わせれば
「脚本がつまらないんで、なんとか面白くしようと思ってね・・」
となってしまうわけですが、では何故こうした空間は「ありえない」のか?
というより多くの物語を追っかける人達にとって何故こうしたロケーションが
ストーリーを阻害するのでしょうか?
上の動画の「東京流れ者(TOKYO DRIFTER)」の有名なラストシーン。
「主人公が犯人を追い詰め、恋人と再会する」
というストーリーに即するなら、こんな異常な空間は必要ないわけです。
そして鈴木清順監督独特のはぐらかしインタビューをそのまま受け取って
「面白くしよう」として奇をてらっているだけと捉えてしまったなら
このシーンを含めた清順映画に流れるストリームの奇跡に気づく事はなくなってしまいます。
ストーリーにとってはいらない空間
だけど
ストリームにとっては必要な空間
この空間は主人公の「内的空間」であり、XR化が成されているから
ストリームにおいて発生する事は必然なのです。
「決壊感覚」というXR
XR脚本術とは無人称化の事であり、
POV的なXR視点を置く事によってストーリーから解放された主人公は
聴こえてくるVOICEと共にストリームに入ります。
大正三部作のスタートとなった「ツィゴイネルワイゼン」のテーマが
聴こえてくる謎のVOICEだった事を思い出してください。
そしてラストシーンでその声の主が明かされることも。
そのストリームはストーリー上に存在する
「現世と常世」、生と死の境界を決壊させ
「アナタとワタシ」の境界を決壊させ
「内側と外側」の境界を決壊させます。
素晴らしいエッセイストでもあった鈴木清順監督は
ことあるたびに自身の生と死の観念の原点となった戦争体験を綴り、
泉鏡花や内田百閒といった大正時代にXR小説を書いた
作家たちへの偏愛を告白しています。
そこで語られるのは監督の座右の銘でもあった
「一期は夢よ ただ狂え」
現世のあらゆる決まり事(物語)が持つ境界の無意味さ
全ては夢の様に流れていく(ストリーム)事の自由さ
狂う事とは決壊する事です。
鈴木清順作品ではストーリーからは出現しないロケーションで
多くのアクションが行われます。
だからその視覚情報がストーリーを阻害してしまうので「難解」とか
思考停止的なポジティブワードとして「美学」と言われてしまいます。
しかしそうした空間・ロケーションはストリーム上においては
「内側」であり「常世」であり
「外側」や「現世」が決壊した証として必然の風景なのです。
XR脚本術で書かれた「無敵の人3.0」にも様々なありえない空間が
ト書きで書かれています。
僕はそれを鈴木清順監督作品で学びました。
この決壊感覚、ストーリーにはないストリームでしか発生しない空間を
同時に書いてもいいんだという感覚を身につけなければ
2020年代・XR時代のための新しい脚本は書けないと確信してそのように書いています。
まとめ
そうしたXRな決壊感覚が最も爆発している鈴木清順監督作品は
なんといっても撮影中に主演の松田優作が狂い
そして中村嘉葎雄も狂ってしまった「陽炎座」でしょう。
ストーリーを演じる事を禁止されて男優達は発狂し
スタッフ全員が「一体今、脚本の何ページ目を撮っているかわからない」
と嘆いた正に完全無欠のストリーム映画といってもいいこの作品で
女優陣だけはそんな男達を尻目に、金髪で宙を飛び
ほおずきを口から大量に生み出しあっけらかんと自由です。
そしてこの「陽炎座」はそれまで自らの作品がストリーム映画である事
を決して明言してこなかった鈴木清順監督が遂にそのXR性を吐露した
作品でもあり、決壊した世界へどうやって飛び込めばいいのか?
ストリームを手に入れるには何をすべきなのかを全て描き切った
「ストリーム世界のための儀式映画」にもなっています。
完璧な自由、あるべきストリームに抵抗する事を放棄した
松田優作氏演じる松崎のラストシーン。
その姿ほど僕等が目指す2020年代の主人公の姿
に似つかわしいものは無い(あっ!あるとしたら「無敵の人3.0」のラストぐらいだと思います)でしょう。
その時放たれた最後のセリフこそが、僕等が今を書くために
今書かなくてはならない、今のコトバなのです。
今回も記事をお読みいただき誠にありがとうございました。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません