うわさのベーコン 猫田道子 アナタの知らない凄い脚本本はこれだVol.2!

2020年2月29日脚本本レビューうわさのベーコン, ツィゴイネルワイゼン, 三人の女, 猫田道子, 脚本

この記事では・カルト本「うわさのベーコン」は脚本を書くための必須テキストだ
・ストーリーを捨てストリームで生きるための作法
について書いています

第一回目の記事は多くの方々に
アクセスいただき誠にありがとうございます。

XR系脚本を書くために
「SAVE THE CAT」やシドフィールド本以上にオススメの
脚本本をご紹介するこのシリーズ
第二回の今回は
猫田道子著「うわさのベーコン」です。

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沙奈絵ちゃん

図書館で読めたりしますが今は絶版で
中古本価格も高騰したままなんですね・・・・
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人間失格

出版されてちょうど今年で20年、以前記事に書いた結城信一氏の作品のように
講談社文芸文庫シリーズに入ってもいいんだけどニャー
同じ猫系作者として強く復刊を希望するニャ

うわさのベーコンを2020年代に取り戻す試み

何しろあの高橋源一郎氏が推しまくるわ
サブカルというよりまだ「カウンターカルチャー誌」
だった頃のQUICK JAPANで大特集そして
単行本が発売っていう流れがあるだけに

いわば「平成色」が付きすぎていて
しかも現在の論調ではSNS時代になって
例えば去年の新宿ホストめった刺し事件の高岡由佳チャンみたいな
所謂「メンヘラ」系小説でしょ?みたいな捉え方で一件落着
してしまってますがそれはこの作品の射程距離を完全に見余っていると思います
XR脚本術において何度も強調している
「無人称」
「視点」
「VOICE」
そして
「ストーリーではなくストリーム」
という観点から見れば
猫田道子女史の「うわさのベーコン」は完全にXR小説であり
2020年代に脚本を書くものにとっては正に「バイブル」なのです。

パラフィクショナルな無人称小説としてのうわさのベーコン

うわさのベーコンにおいて一行目から出てくる人称は
一人称としての「私」ですし、QUICK JAPANの
インタビューで猫田道子女史自身がこの小説の
主人公と彼女自身がニアイコールだと述べていらっしゃるので
この小説は私小説として始まります。
しかしうわさのベーコンにおける「私」は
ページを追うごとに少しずつ少しずつ崩壊していきます。
一致していたはずのページ上の「私」とそれを書く「私」は次第に分裂していき
ページの中の「私」が書く「私」を飲み込んでいきます。

しかも「私」の他に現れる
「彼」
「先生」
「母」
「Tさん」
「直ちゃん」
といった人々さえも、徐々に屈折する「私」の視点に合わせるかのように
まるでホログラムのようにページ毎に立ち現れる姿を
メタモルフォーゼしていきます。
そして作品のラストで「私」は交通事故で死んでいて
それを見つめる「私」こそが作者であった事が明かされる時
このうわさのベーコンが正に常世と現世を繋ぐ
無人称なザ・XR小説である事を確信しない人はいないと思います。

うわさのベーコンにおける「VOICE」

XR脚本術で書かれた「無敵の人3.0」における
“VOICE"と同じように、うわさのベーコンでは
あらゆるシチュエーションで「声」が唐突に登場します。
というより読み進めていくうちに次第に気づくのは
「私」に話しかける全ての人達の声・言葉さえも
実は「私」が発しているVOICEなのではないか?

え?でもそれが他者ではなく「私」が「私」に話しかけている
VOICEだとしてもそれの何が問題なの??という正にXR感覚こそが
この作品の磁場を強烈に支配している驚きです。
こちらの記事に書いたように

正反合という弁証法的「"真"の他者との会話」こそが
脚本には必要だ!!とどんな脚本本にも書かれています。
でもうわさのベーコンはそれがあくまで「ストーリー」のために必要とされる
装置でしかない事を暴露します。
とすると、こうも言えるのです。
実は他者とは、僕らが生きる上でストーリーを必要とすると思い込まされる
事によってのみ存在しているんじゃないか?
もし僕らがストーリーを捨ててXRなストリームに生きる事を選択するなら
その瞬間消えてしまうもの、他者とはそんな相対的な存在に
過ぎないんじゃないか?
だとしたら僕らが脚本をXRとして書く場合セリフとして必要なのは
「他者」ではなく「VOICE」である事。

うわさのベーコンはストリームを生きる生を肯定する

以前のこの記事でアウトサイダーアートについて書いた時
にも触れましたが


XR体験において立ち現れるのはストーリーではなくストリームです
よく脚本本ではこういう事が言われます
「私たちは普段ストーリーを感じる事ができない無意味な
ストリームな世界にいきている。だからこそそんな無秩序な
世界を生きるための意味を与えるためにストーリーが必要なんだ」
というやつです。
しかし繰り返しますが、それは本当に令和に、2020年代に生きる僕達の
本当の実感でしょうか??

うわさのベーコンでは私もあなたも過去も未来も現在も場所も距離も
生とそして死さえも元のカタチを失い
フルートの音色というストリームの中へと溶け出していきます。
その無秩序その微熱その無意味
うわさのベーコンを読んだ時に僕らが感じる圧倒的な自由と
美しさは、ストーリーという「まやかし」こそが僕らの生を蝕ばみ
停滞させている源である事を気づかせてくれるのです。

まとめ


僕がうわさのベーコンを読む時いつも思い浮かべる映画が二本あります
一つはこのブログではお馴染みですが鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」と

ロバートアルトマン監督作品で最も難解といわれているカルト映画「三人の女」です

QUICK JAPANの独占インタビューに掲載された
猫田道子女史のポートレートはまるで生き写しのように
これらXR映画の女主人公達に似ています。

ツィゴイネルワイゼンも三人の女もそして猫田女史も
彼女達に共通しているのは
生きているか死んでいるか、そんな事ってば全然大切な事じゃない
というXRなストリーム魂です。
生を補完するために紡がれるストーリー
でもそれは現世に奉仕するためだけのもので
常世のあっち側では何の意味ももたないものです。

何が起こったのか?を説明するのではなく
何が起こったのかわからない状態をこそ書く事

その境界線を越えた時、僕等にとって最も大事なものは何か?
について「うわさのベーコン」そして上記の2作品は教えてくれます。
その微かなで美しい混沌をこそ
僕らはXR脚本のために
記さなくてはならないのだと思います。

今回も記事をお読みいただき誠にありがとうございます。