脚本とは 「ME AGAINST ME」自問自答の事である

脚本アリラン, アンドロメダ病原体, セリフ, 会話

この記事では・ソーシャル時代における本当の会話のスタイルとは?
・COVID-19以降の世界と脚本
について書いています

いつも最新の脚本に関するトピックをWEB上で
ウロウロと探し回っている当ブログですが
「NO FILM SCHOOL」に面白い記事が上がっていました


有名なというかどんな脚本本を見ても載っている
「一ページ一分」というページと尺の長さの法則について
700以上の脚本の分析をしたところ
その「法則」に則った脚本は22%しかなかったというもので
よい!!良いですなぁーー当ブログをスタートしたのは
何度も書いてますが今までの脚本本がいかに新しい時代の
脚本を書くのに弊害となっているかを暴くためのもので

こうして様々なカタチで脚本に関する嘘が暴かれていくのは
本当に時代の要請になってきているなぁと感じます。

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沙奈絵ちゃん

ツイッターでも当ブログが今、日本で一番お伝えしてますが
Abel Ferrara監督の最新作「Siberia」も
今までの監督のスタイルを一新したDREAM LOGIC映画になってるらしいです
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人間失格

このブログでは様々な記事で映画も含むあらゆる表現において
XR化というカタチでの地殻変動が起こっている事をお伝えしているけど
「夢見の技法」の記事で書いた通り、あの大傑作「Ms .45」のアベル・フェラーラ先生も
やっぱりそれに敏感に反応しているんだニャー!!

 

ソーシャルが殺す脚本の「会話」

脚本に関する前提が変わろうとしている潮流の中で
当ブログが一番注力しているのはやはり脚本における「会話」の役割です。
脚本は「ト書き」と「会話」で構成されていて
「会話」は以前の記事にも書いたように弁証法に基づいた
「他者」とのやりとりでなければならないというのが脚本における
最も大きな前提となっています。

 

でもこの「他者とのやりとり」=「脚本における会話」
というテーゼこそが2020年代に脚本を書く場合における
最も最悪な嘘だと僕は思っています。

だって皆さん、他者とやりとり=会話するのって本当に楽しいと思っていますか??
SNS・ソーシャル時代、他者との関わり・繋がりこそが
人々が生きる上で最も重要視されるものとなり
今ではその繋がりを「バリュー」とした評価経済圏までもが持て囃され
「他者との会話」社会の中で生きる事を余儀無くされる未来が待っているらしいです。
正に「他者と喋る」事がコンテンツの前提となっている脚本にとっては
夢のような世界になっていく?!?!?
でも本当に僕らは他者と繋がることによって自分がリーチしようとしているものへと
たどり着くことができるのでしょうか?

僕は逆だと思っています。

本当に「他者」は必要ですか?

僕らは他者と繋がることで閉じ込められているのではないでしょうか?
僕らは他者と会話をすることで時間を無駄にしているのではないでしょうか?

これらのことは今のSNS・ソーシャル社会においては
最もバリューの低い、最も言うべきではないことになっています。
そしてもちろん「他者性」こそがストーリーを産むとされている脚本においてもまた
そんな考えでは脚本は絶対に書けないとされています。
でも・・・・・

僕らは本当は他者なんか何の役にも立たないと思っているんじゃないでしょうか?

僕は物心ついてから今まで一回も他者との会話を楽しいと感じたことはありません。
もちろん撮影をしたり打ち合わせをしたり、「必要な会話」は過剰なほど行います。
だから仕事上におけるほとんどの方々は僕をモーターマウスなコミュニケーターだと
思っていただいていると思います。
でもそうしたやりとりで疲れ切ってしまい、仕事以外で他人と話したいと思ったことは
一度もないので友達も一人もいません。
そういった僕にとって「会話=他人とのやりとり」が重要という思考は全く理解ができないものです。
そんなの仕事上必要だから合わせてやっているにすぎないもの
そんなの仕事以外では必要がないからその他ではやらない
だから僕はどうしてもこう思ってしまいます。
「ソーシャルな会話こそが社会のそして脚本の礎であるなんて嘘八百でしょ?」と
皆さんはいかがでしょうか??

映画「アリラン」という孤独

そんな僕にとって必要な会話とは「自問自答」です
これまで作られた映画でも「TALKING TO THEMSELVES」
自問自答するシーンが重要なものとなっている作品は多々ありますが

やはり近年で代表的な「自問自答映画」は
キム・ギドク監督の「アリラン」でしょう。

全編一時間40分を自問自答だけで構成したこの作品に
拒絶反応を、いわゆるキム・ギドクの「ストーリー映画」を「他人との会話映画」を
絶賛していた人達ほど「失敗作」と断言する「アリラン」を
人々はこう批判しています。

・自己満足映画

・ナルシズム映画

・リハビリ映画

「他人との会話」を描かないからそれは観客のためではない自己満足であり
監督しか出てこないからナルシズムが満載であり
この後またストーリー映画に復帰したからそのためのリハビリ映画だって??
僕はアリランがキム・ギドクの最高傑作だと確信しています。

そんなに他人と繋がりたければSNSでもやればいい訳で
もう映画は「他人との会話」を求める人々のものではないし
一人でいる事ができないからその孤独をナルシズムといって恐れているだけだし
この作品以後のキム・ギドク作品は過去作品の焼き直しにすぎません。
一つ言わなければならないとしたら
この映画はもちろんXR作品として作られなければならなかったという事。
誰かが監督に「今アナタが作るべきなのはPOV・無人称視点の
XR映画なんですよ」というべきなのにソーシャルに淫した映画界において
それを告げてくれる人は皆無でしょう・・・・・不幸な事だなぁと思います。

ME AGAINST ME 自問自答という闘い

僕には「自問自答」という自分との会話を何故そんなに
人々が恐れるのかがわからないというか
ソーシャルから切り離される恐怖が蔓延している事の方が怖いと思います。
今、2020年にその「恐れ」の源泉を書こうとしないで何故脚本がかけるのか
その先に書かれるべきものを見据えないで何故脚本が書けるのか

僕にはさっぱりわかりません。
他人との繋がりなんて「暇つぶし」であり
もちろんそう捉えてひたすら会話の遊戯性に特化した脚本を書いていらっしゃる方も
特に演劇系では多く存在しています。
でも僕はそうした認識さえも平成的で古すぎると思っています。
他者との会話を書いてしまった瞬間、脚本はソーシャルに取り込まれてしまう
そうしたら僕等はソーシャルとは何か?という疑問への答えも
その先にあるはずの未来にも手を伸ばせなくなってしまう。
その危機感からXR脚本術によって書かれたのが「無敵の人3.0」であり
全ての会話をVOICEという無人称との会話(自問自答)で
塗りつぶすことこそ僕等が本当にリーチしたいものへと近づく唯一の方法論なのです。

まとめ


音楽関係ではLIVE NATIONが全てのLIVEを中止
SXSWも中止コーチェラは延期、そして映像関係でも
NETFLIXは全てのオリジナル作品の制作を一旦ストップするなど
エンタテイメント業界への新型コロナウイルスの影響がジワジワ高まってきています。
近年、音楽コンテンツの収益のメインはLIVEに
そしてストリーミング系映像コンテンツで最も収益性が高いものは
ドラマと言われてきましたが、僕はずーっと、このソーシャルで繋がる事
による収益のシフトを平成という時代における
エンタメの劣化・反動性の象徴だと思っていました。

本来ならば音楽も映像も一時代前のスタイルへと後退するのではなく
XR関連の技術を業界一丸で模索し新しい表現スタイルへと
飛び込まなくてはならなかったのです。
LIVE(接触)の時代?!ストーリー(会話)で繋がろう???
COVID-19という感染症によってこれらの「嘘」で繋がる欺瞞が
暴かれようとしています。
XR脚本術で書かれた「無敵の人3.0」はコロナ以降の
僕等がまだ何者でありうるのか?
についての予言の書となりました(大袈裟でスイマセン・・・・)
そんなSOCIAL DEADな瞬間に僕らにとって本当に必要な会話とは?
僕等はその問いから出発して脚本を書かなくてはならないのです。

今回も記事をお読みいただき誠にありがとうございます。