メロディーと和解した降谷建志。なぜThe Ravens「Ghost Notes」は傑作となったのか?

JPOP

スミマセン・・・・この作品リリースされたのは一年前です・・・・

ずーーっと、そしてたまたま作ってきたAVを見ていただいた事があるとしたら
僕にとってKJの作品がどれだけ大きな意味を持ってきたかは明確だと思います。

日本のポップミュージック史において真の意味でロックとHIPHOPのMIXTUREを成し遂げたのは
DRAGON ASHの「陽はまたのぼりくりかえす」だし

MORNING PLAYLISTにはいまだに「Let yourself go, Let myself go」が入っているし

このクソ長いTEXTの〆は「DEEP IMPACT」です

 

で、もうこうしたレジェンドな楽曲をどや顔で掲げてる時点で天才・降谷建志氏に対して無礼極まりない・・・・

でも、であるがゆえにThe Ravensの3rdアルバム「Ghost Notes」まわりの環境に驚愕してしまい、リリースから一年以上たっている
この作品に関してどーーしてもネット上にテキストを残したい!!と思い書いています

旗を掲げること、そして自分を守ること

降谷建志という表現者の核にあったもの。それは技巧ではない。センスでもない。ましてや「器用さ」などでは断じてない。
それはもっと剥き出しで、もっと危険で、もっと孤独なものだ。
つまり――旗を掲げる勇気である。

考えてみてほしい。
ROCKとHIPHOP。
いまでこそ交配も混血も当たり前のように語られる。だが、あの時代、その二つを日本のど真ん中で、しかも“借り物の折衷”ではなく、“自分たちの血の音”として結びつけることは、ほとんど戦争だった。
ジャンルをまたぐことではない。
部族をまたぐことだったのだ。
そして部族をまたぐ者は、常に裏切り者として見られる。

DRAGON ASHとは何だったのか。
それは単なるヒットバンドではない。
日本のポップ史において、「こんな旗はまだ誰も掲げていない」という地点に、最初に踏み込み、実際にその旗を高く、高く、誰の目にも見える形で打ち立てた存在だった。
その象徴が『VIVA LA REVOLUTION』のジャケットであることは、偶然ではない。
あれはデザインではない。
宣言だ。
ビジュアルではない。
思想の可視化だ。
革命とは何か。既存の文法の内部で器用に立ち回ることではない。
撃たれる場所に、自分から立つことだ。

そして、あまりにも日本的な悲劇が始まる。
出る杭は打たれる。
いや、もっと正確に言おう。
この国では、いちばん高く上がった旗ほど、遠くからよく見える。だから最初に狙撃される。
降谷建志は、まさにその標的になった。
しかも敵は、もっとも愛し、もっとも敬意を払い、もっとも接近しようとしたHIPHOP側からやってきた。
このねじれ。
この残酷。
この傷の深さ。
ただ批判された、という話ではない。
自分が憧れ、自分の身体に導入しようとした文化から、「お前は違う」と斬られる。
その痛みは、単なる炎上やゴシップの比ではない。
それは表現者の中心に入る。
骨に入る。
その後の声の出し方、ビートの置き方、言葉の吐き方、メロディーの信じ方、そのすべてを変えてしまう。

消失したメロディーとエモーションの行方

だからこそ、あの時期以降のKJの音楽から“メロディーが消えていった”ように聴こえるのは、単なる作風の変化ではないのだ。
そこには時代の気分もあっただろう。
より硬質に、より先鋭的に、よりビートと質感へ向かう美学もあっただろう。
だが、それだけでは説明できない。
あれは美学であると同時に、防衛でもあった。
旋律とは何か。
それは無防備さだ。
人がメロディーを歌うとき、そこにはどうしたって感情の輪郭が露出する。
胸の柔らかい部分が出る。
つまりメロディーとは、表現者にとっての“生身”なのだ。
その生身を一度深く傷つけられた者が、まず先に何を手放すか。
それはきっと、メロディーなのだ。
歌えるものより、刻めるものへ。
泣けるものより、構築できるものへ。
感情の震えより、音響の迷宮へ。
KJはそこへ潜っていった。

そしてそこから始まるのは、逃避ではない。
だが、治療ではあった。
ラテン。IDM。ダブ。エレクトロニクス。さまざまな音楽的スタイルを、ものすごい速度で吸収し、変形し、再構築していくその運動。
あれは単なる雑食性ではない。
単なる旺盛な探究心でもない。
もっと切実なものだ。
現実で受けた傷を、音楽そのものの内部へ深く潜ることで癒そうとする、巨大なセラピー。
世界に拒絶された痛みを、世界中の音の粒子と接続することで中和しようとする行為。
それがあの時期のKJの音楽の凄みであり、同時に哀しみでもある。

つまり彼は、敗北して沈黙したのではない。
むしろ逆だ。
傷ついたあと、さらに深く音楽へ降りていった。
普通なら壊れて終わる地点で、彼は音を掘った。
掘って、掘って、掘り続けた。
その結果として生まれた作品群は、しばしば「難解」だとか「メロディーがない」とか「昔と違う」と言われた。
しかしそれは、失速ではない。
傷口の深さに比例して、表現の坑道が深くなったということなのだ。
彼はポップスターとしてわかりやすく回復する道ではなく、表現者としてより深く変質する道を選んだ。
ここが重要だ。
降谷建志は、ずっと旗を降ろしていない。
掲げる場所が、空から地下へ移っただけなのだ。

その旅路の過酷さはパニック障害の発症にまで帰結していった

「Ghost Notes」はなぜ傑作となったのか? グルーヴに身をゆだねて

ちょうど先日このブログでは「ゴーストノート」について触れたばかりですが

1stそして2ndで目指しつつもどうしても「超えられない一線」があった
降谷建志氏自身による「メロディーとエモーションの奪還」という表現者としてのミッションが
遂にこの三作目となる「Ghost Notes」でクリアになっていること
その事に僕は本当に驚きました。

上のリンクテキストでも書いたようにゴーストノートこそが音楽にグルーヴをもたらします。

そしてグルーヴに身をゆだねて「自由」になったとき、そこにメロディーが生まれます

ここにあるのは、初期衝動ではない。
二巡目の勇気だ。
それも、若さに支えられた無鉄砲さではなく、傷を知り、拒絶を知り、孤独を知り、それでもなおエモーションを差し出す者だけが持つ、成熟した勇気である。

「Ghost Notes」におけるメロディーは、ただ美しいのではない。
ただエモいのでもない。
そこには履歴がある。
失われた時間がある。
傷ついた沈黙がある。
その沈黙を通過して戻ってきた旋律だからこそ、そこには単なるキャッチーさを超えた重力が宿る。
言ってしまえば、The Ravensのメロディーとは「昔からあったもの」ではない。
一度世界に奪われ、長い時間をかけてようやく自分の手で取り返したものなのだ。

誰にも見えない傷口から始まり、いつしかそれが時代の風景に変わる。
降谷建志は、その傷を隠すために音楽をやったのではない。
傷を抱えたまま、それでも旗を降ろさないために音楽をやってきたのだ。

そして、だからこそ思う。
DRAGON ASHが革命だったのは、ただ新しかったからではない。
The Ravensが胸を打つのは、ただ良い曲だからではない。
その両方を貫いているもの――
それは、どれだけ斬られても、どれだけ誤解されても、どれだけメロディーを失っても、最後にはまた自分の声で世界に向き直ろうとする、この途方もない意志である。

旗を掲げる者は、いつだって孤独だ。
だが旗を掲げる者だけが、風の形を知っている。
降谷建志とは、その風に身体を裂かれながらも、なお旗を持ち続けた人間の名前なのだ。

2002年の「公開処刑」から23年、遂にKJはそのみずみずしいメロディーを唄を取り戻した

その記念碑のような大傑作が「Ghost Notes」なのです

この傑作についてほとんど何の批評もないという日本の音楽評論の不幸さ

そしてもちろんこの記事もリリースから一年後という恥ずべきテキストであることを自覚しながら
それでも、どーーしても書かなくてはと思ったのは、これだけの傑作、
それは降谷建志という表現者の文脈だけではなく

人が生きていく中で大切な何かを取り戻すこと

という普遍的なテーマを持つこの「Ghost Notes」という傑作の作品性について
ほぼ全く言及した記事がない・・・・・ということに驚いたからです。

もちろん俯瞰してみればKJ自身が雄弁に語る長尺の動画があるんだからということで
多分作品インタビューを降谷氏が受けていない事にも起因するとは思いますが

いや!!いや!!!!いや!!!!!!!!!!!!!!!レジェンドだし、そりゃあメディアにもウェルカムな人ではないかもだし
これだけの歴史があるKJの音楽をコトバで再定義するのはコスパが悪いんでしょーよ

いや!!!でもそれはあまりにもマズいと思います。

非情にPOP中毒者的な言い方になりますが、ある意味でこの作品は故・渋谷陽一氏が生前KJに嫌がられるほど
インタビューで言及していた「唄メロ」について降谷氏が回答を出したという作品でもあるわけで
それはつまり音楽評論への"コール"でもあるわけです。
それに"レスポンス"しないことは健全なポップジャーナリズムとは言えないし、不幸な事態だと思います。

だって音楽メディアが率先してこの作品に対して「旗」を立てなければ
KJはライブツアーしかやらないでしょ?

でもこの「Ghost Notes」のメロディーやコトバはライブハウスという空間を超えて
TVでもお茶の間にまでも届く射程をもっている。

そうしたメディアにおける「グルーヴ」を作るためのゴーストノーツとして僕らのテキストはあるべきで
それがこうした傑作に対する最低限の「礼儀」なのだと思います。

Posted by nolongerhuman