AIAVの記事がNOTEに公開停止されたのでコチラに再アップします・・・(号泣)
うそーーーーーーーん!!!
今回AIAVの立ち上げにあたっての6年間の道程を記した
22000文字にも渡る超ーーーーーロング記事が
突然NOTE側で「公開停止」となりました・・・・・・
でも今のAVの現状を考えればそーーかもねーーーという事で
安心安全なこちらに全文を再アップさせていただきます。キビシーーーーーーーー
うわぁーーー・・・・・・X(Twitter)の最後の投稿のタイムスタンプは2018年4月1日。お待たせいたしました。お待たせし過ぎたかもしれません6年のブランクを経て、遂に新コンテンツ「AIAV」始動させていただきますご愛顧いただいた「性格良し子ちゃん」からのメタモルフォーゼです。
このWHITEPAPERは「AIAV」のローンチにあたりこの6年間ほどの紆余曲折しまくった行程の詳細と「AIAV」とは何か???についての解説として公開するものです。
僕の悪い癖でいわゆる「旗を掲げ過ぎ」な部分もあると思いますがこのテキストの中に、絶対にこっから先10年の
エロに
エンタメに
ボーイミーツガールに必要な
コア中のコアのヒントがあるはず
と思っているので長文お許しください。
自分自身でもAIAVまでの諸々をまとめておきたいと思って書いたのでとにかく長いです・・・・・【文字数22000】とりあえずAIAVって何?ってとこだけ読んでみたいという方は前半をふっとばしてChapter010あたりからお読み頂ければうれしいです。それではいきます。
目次
- CHAPTER001なぜ「性格良し子ちゃん」のアクティビティはストップしたのか?
- CHAPTER002 「DREAM MACHINE」からはじまった「フィクションとは何か」という「Q」
- CHAPTER003「フィクションとの死闘 DREAM MACHINE編」
- CHAPTER004「フィクションとの死闘 SCRIPT WRITING編」
- CHAPTER005「フィクションはどう書かれるべきなのか? VR発 XR行き 」
- CHAPTER006 「カメラ=万年筆=二人称」
- CHAPTER007 「無敵の人3.0 POST HUMAN SEXと量子的シンギュラリティに関する最終報告」
- CHAPTER008「オーソンウェルズが仕掛けた幻のXR映画」
- CHAPTER009「2019年のシンクロニシティと2020年のシンギュラリティ」
- CHAPTER010「AIAV IS BORN 新しいフィクションから新しいノン・フィクションへ」
- CHAPTER011「THE MOST POPPIEST ADULT VISUAL IN THE WORLD AIAVがポップである理由」
CHAPTER001なぜ「性格良し子ちゃん」のアクティビティはストップしたのか?
この「性格良し子ちゃん」ローンチ時の貴重なインタビューにもありますが
始めた当初はまったく認知されなかった「性格推しAV」という
謎エロコンテンツ。
ボクの場合、何かをローンチする最大の原動力は
「誰もやっていない」
この一点のみといっても過言ではないので
性格良し子ちゃんという
日本初のコンセプトワークは
おおげさすぎるほど大げさにいってしまうと
昔、敬愛するモリッシー御大がTHE SMITHS時代のNMEインタビューで
「僕にとってTHE SMITHSは生命維持装置さ。これがなければ僕には社会と繋がる手段を絶たれるわけだから」
と宣言していたのと同様の
僕にとっての生命維持装置。
何かを作る、特にカメラを持つっていう
行為をしてるときだけが
生きてる実感を唯一持てる、
これをもーちょっとPOPに、この故・雨宮まみ女史にしていただいたインタビューでも
言ってるみたいに、
セカイと
ヒトと
そしてなによりおんなのことコネクトするために
カメラ(=ガジェット)を武器に、
そして何よりもフレッシュなアイデアがなくては
文字通り生きていけない。
だから「性格推しAV」という生命維持装置でもって
おかげさまでエロと同時にMVをはじめとする
様々な音楽系コンテンツも作らせていただきましたが
でも自分の中では作り方として
マンネリ感
を強烈に感じるようになっていました。
2015年からは独自の視点での
「KPOPルネッサンス」を提唱して
評論や紹介記事を音楽サイトで
書かせていただけるようになって、
そしてそこで宣言したように
見事に2015年以降のKPOPは
もっとも正しく僕らの世界の時代性を照射した
世界最高のポップミュージックになりました。
そうしたKPOP的正しいPOPNESSを
映像的に取り込むというスタイルで
ギリギリ延命はしていましたが
文字通りの意味で「生きる」ために
古くなってしまった「性格良し子ちゃん」以外の
まったく新しい生命維持装置がどうしても必要だ!!
そのためのひとつの実験が「DREAM MACHINE」でした
CHAPTER002
「DREAM MACHINE」からはじまった「フィクションとは何か」という「Q」
そういった時期に偶然参加することになったのがMOOSIC LAB。
この映画祭のテーマはもちろん
「映画×音楽」なわけですが
過去のエントリー作品を調べていて、
いくつかのドキュメンタリー作品は
あるにせよその多くが「フィクション」作品であることが気になっていました。
普通なら(というか主催者側もそう思っていたと思いますが)性格良し子ちっゃんまでずーーーっと
ボクが作ってきたモノは
AV界におけるドキュメンタリーなわけだから
この時もボクが作るなら
「音楽×ドキュメンタリー映画」が最適解
でもCHAPTER001で書いたようにその当時(2015)
ぐらいにはドキュメンタリー的手法に
疑問が生まれていたのでそっちでは作れない。
そんなモードでMOOSIC LABのいろいろな作品について考えていたときハタ!!と気づきました。
「フィクションってなんなんだろう??」
ボクはずーーっとAVにおけるドキュメンタリー、
ノン・フィクション
を作ってきました。
そしてその逆にMOOSIC LABに参加する
映画作家の方々のほとんどは
幼い頃から映画に魅せられ、自らも映画を、
中でもフィクションをコアとした映画作品を制作している。
ではなぜボクにはフィクションを作ろうという
という欲望がいままで
全く芽生えなかったのか???
ボクもご多分に漏れずいっぱしのシネフィル気取りでJS時代からシネマテークに通って
ミッドナイトムービーやカルト映画にはまり
何千本というフィクションを機軸とした映画作品を見てきました。
でもそれはあくまで同じようなフィクションを作るためではなく
ノンフィクションを作るための
「サンプリング素材」として
トラックメーカーがトラックを作るためにネタをDIGするのとほぼ同じ感覚で、映画=フィクション作品をひたすらみている感じでした。
だからMOOSIC LABにお誘いを受けたとき、このタイミングでやろうと思ったことは
「フィクションを作るとはどういう意味をもつ行為なのか??」
をとことんまで突き詰めてみよう。
映画において、表現において
そしてボク自身にとってフィクションがもつ意味、
その正体を解き明かそうという課題を
設定しました。でも、
こーーーーーーーれがマズかったデス(泣)
いやーーーーーこれが「怪物」だったデス(号泣)
今ようやく
「AIを使った新しいノンフィクション」
という地平に戻ってこれたのでこうやって俯瞰して書けてるわけですが
いうまでもなくこの「フィクションとは何か?」っていうQは人類の歴史に「物語」が生まれて以来、延々と問われ続けている命題で
この"沼"にハマるとヤバい&マズい。
でもこのタイミングで絶対に答えを出さないとダメだ!!
もうこのモードになっちゃってる時点で
「沼」なわけですが
2015年の「DREAM MACHINE」から足掛け約8年間は、すくなくともボクにとって
「フィクションとは何か?」
「どういう意味をもつのか?」
「それは今、どうやって作られるべきなのか?」
という命題に対する答えを見つける8年間でした。
CHAPTER003「フィクションとの死闘 DREAM MACHINE編」
フィクションという怪物に対する2015年時点でのボクの武器
それはDREAM MACHINEのタイトル通り
「夢」
でした。
通常フィクションに相対するものはノン・フィクションという定義付けができると思いますが
ボクはこの当時
今(2015)のノン・フィクションという構造・スタイルではこのフィクション全盛時代に勝てないなぁと感じていました
いや!ちょっと待って!!
フィクションとは何か?を探るはずが、一足跳びに
フィクション批判になってるんじゃ
と感じている方も多いかもしれません。
この当時ボクはフィクションを「怪物」であると感じていました。
それは映画だけを見ても海外ではアメコミ的世界観によるフィクション映画が、そして同時進行的に日本でも(これは実は邦画史的には1970年代から繋がってますが)ピュアフィクションとしてのアニメ映画が
全盛期を迎えようとしている。
フィクションとは何かをDIGしていけばしていくほど
2015年の時点で、映画を含めてあらゆる創造行為は全て
「フィクション的手続きに隷属しなくてはならない」
という要請をうけてしまっているのではないか?という
“いやな予感"
を感じていました。
いやいや!!いやな予感なんかじゃなく
それは「進化」ジャン!!
ようやく映画を筆頭にこれまでごちゃごちゃしていた「創造」は、すべからくフィクションというメソッドに統合されるわけでこんな喜ばしいことはないジャン!!
というアティチュードが
この10年のあらゆる創作メディアの基調にあると思います
でもこの
「フィクションこそ、この時代の究極の創造行為のカタチである」
「ボクらのホントウはフィクションの中にある」
2024年現在、USではついにアメコミ映画に暗い影がおとずれつつあるので状況は変わりつつあるけど、日本の映画・映像作品はピュアフィクションなアニメオリジン作品が盛況であり
フィクション=誰かが作る、「ボク・ワタシ以外の物語」こそが正しい
このフィクションが内包するコア中のコアの構造
これにボクは当時(2015)強烈な違和感をもったわけです。
もうお気づき方もいると思いますが
今ボクは1970年代の洋画制作においてバイブル化されて、それが実写映画へのルサンチマンとして日本のアニメ映画制作においてもアダプトされ、アニメを模倣するカタチで近年の日本の映画やドラマに
20年遅れて実装されつつある
神話的ナラティブ理論
の話をしてるわけですが
MOOSIC LABの作品群の多くがフィクションに準拠した作品であることをを見た時、
フィクションこそが音楽の、時代の、ボクのワタシのコアを射抜くための正しい手段である
という、参加されている映画作家の方々の
確固たる意志を強烈に感じました。
でも!! ボクはそうは思えなかったわけです。
そうではなくてフィクションって怪物でしょ?
そしてどう考えてもそうしたフィクション映画は
もう新しい時代における
ボクらの魂を救ってくれる作品ではないよね??
とMOOSIC LABに参戦した多くの映画作家の方々とは真逆の事を考えていました。
この確信を抱いてしまったのが運の尽き。
ボクの「DREAM MACHINE」は
音楽に関するフィクション映画を求める
MOOSIC LABクラスタの方々の期待を180度裏切る
歪な、フリークス映画となりました。
フィクション世界で生き生きと音楽と戯れる作品とは真逆の、1930年代トッド・ブラウニングによって産み落とされ封印された伝説のカルト映画「FREAKS」のように
そしてそのフリークス達がサーカスのテントの下で
眠りについた真夜中に見た
「夢」のように・・・・・・・
タイトルがDREAM MACHINEで、
そしてポスターにも冒頭にもメリーゴーランドが
フューチャーされているのはもちろん
1959年に開発されたDREAM MACHINEへのオマージュ
フィクション的構造に対して夢的構造でバトるという戦略は
・1920年代からはじまった「アンダルシアの犬」や「午後の網目」のような
いわゆる実験映画や
・1960年代から1970年代のイタリアのジャーロ映画群
・おなじく1960年代からのアラン・ロブ=グリエ関連作を筆頭としたアンチロマン映画群
・近年急激に再評価が進んでいる1970年代のジャンローラン監督作品
・未翻訳ですが映画史を俯瞰した超傑作本である
「HOUSE OF PSYCHOTIC WOMAN」に掲載されたPSYCHOTIC MOVIE達
House of Psychotic Women (series trailer) from Cinefamily Archive on Vimeo.
そして脚本というフィクションを
撮影中に解体しまくり撮影終了後には
脚本の厚さが追加されたイメージ資料で
百科事典ぐらいなっていたという
鈴木清順監督作品や
撮影中に瞑想タイムがあり、
常にフィクションという怪物と
無意識で格闘しながら作品を作り上げていた
デヴィッド・リンチ監督作品
等etcetc
新しい戦略ではありません。
「DREAM MACHINE」は100年間の映画史における夢映画
フィクション的ナラティブに異を唱える無意識系映画
のショーケースを目指しました。
フィクションのホントウの正体は怪物だ!!殺せ!!!!!
そんな自爆テロ的作品が「DREAM MACHINE」でした。
ただ! そのテロリズムとアジテーションが怪物を倒したのか?
それはNOだったと思います。
それはなぜだったのか?
これが2018年の「性格良し子ちゃん」休止以降のクエストの最大のテーマとなってしまいました
そしてこのためにノンフィクションから遠く離れて
さらにさらにフィクションの沼へ・・・・・・
CHAPTER004「フィクションとの死闘 SCRIPT WRITING編」
夢という武器でフィクションに対峙したつもりだったのに「勝った!!」という喜びが感じられない。
この虚構(フィクション)か夢かというバトルは
文学作品でいうならあの有名な谷崎潤一郎と芥川 龍之介による「文芸的な、余りに文芸的な」論争とまったく同じもので
この論争に於いて
もうすでに自殺の直前だった芥川の戦い方は多くの人たちから支持を得ることができず、大谷崎によるフィクション論を打ち負かすことができなかった。
もちろんボクは芥川支持だったのでこの論争における芥川の焦燥感が痛いほどわかったし
だからこそ「DREAM MACHINE」のコアとなる夢が
フィクションを完全に凌駕したとはいえませんでした。
まるでドンキホーテのような戦いだ。
多くの人たちが風車だと言っているのに
ボクだけがそれを怪物だと思いこんでいるんでは?
夢を武器にフィクションと戦ったとはいいつつ
実は感覚的には夢の中にDIVEするのに近くて
怪物の姿を見なくてすむように夢へと回避したんじゃないのか??
ではホントウにその怪物と戦うにはどうすべきなのか??
ここでようやく一つの進む道を発見しました。
それは怪物の生態をすみからすみまで徹底的に調べあげ、細胞の一つひとつまで解剖して
そのすべてを把握しなくちゃ戦い方さえわからないんじゃないのか??
こう考えるようになって2015年後半から、とにかく手にはいるだけの脚本本、映像におけるフィクションの構造を解説したテキストを全て読破することをスタートしました。
FILM ART社の関連書籍はもちろん全て
ネットと図書館のデータベースを駆使して過去70年間の脚本関連本を全て
いうまでもなく脚本=SCRIPT WRITING本の豊富さでは日本は海外の足下にも及ばないので未翻訳のSCRIPT BOOKを50冊
加えて有名なチュートリアルコースであるMASTERCLASSもネット受講しました
これまでにも千本近くのフィクション映画を見てきて、でもそれはノン・フィクションを作るためのサンプリング素材としてDIGしてきたのであって、その映画作品におけるフィクションの構造やナラティブに共感してきたわけではなかったことはすでに書きましたが、ここで遂にこれもやりました、
これまでに見てきたフィクション映画作品から
100本をチョイス
映像から脚本テキストを起こす地獄の100本ノック。
2年間でここまでやった時突如として、言うなれば
「フィクション脚本脳」
がボクの中で爆誕!
2017年の終わりまでには立て続けに各70ページ
10本ほどのフィクション映画脚本が書けるようになっていました。
ボク自身が怪物になってみること
そこから見えるセカイがセイカイであれば
ボクは永久にノン・フィクションとさよならをして
フィクション界民になろう!!!と思いました。
でも、そこから見えるセカイはそうではありませんでした
それは僕にとっては「ザ・地獄」・・・・・・・
既に1000曲以上聴いた2024年の洋楽から最新のPOP ANTHEMをお届け。
オーストラリアの女性SSW Phoebe Go の最新曲 7 Upが素晴らしすぎるッッ!
この「声」は確実に今年から来年ブレイクしてしまう見事なまでに今必要とされている歌声だと思います。
地獄其の壱 「ハリウッドHELL」
なんといても現在までの100年近く
フィクションによる物語化のバイブルは
ハリウッド映画であり、正しくフィクションを作ろうとすれば僕らはその聖林にすむ悪魔に
その魂を明け渡さなくてはならない
その煌びやかな天国の仮面を被ったフィクションという名の地獄の真実を暴露しようとしたのが
ケネスアンガーの「ハリウッドバビロン」であり
「マジックランタンサイクル」と名付けられたアンガー監督自身による実験映画群でした
フィクションライティングでたち現れた物語には
確かにその悪魔達が写っていました。
地獄其の二 「総合芸術HELL」
20世紀という映像の世紀を象徴する映画は
それまでの全ての創作を統合するメディアとして
総合芸術であるという栄誉を受けました。
しかし、映像プラットフォームは極限まで多様化し
映画を総合芸術たらしめてきた一つ一つの要素
・映像美も
・物語性も
・哲学性も
それぞれの固有性に特化したメディアが存在するようになりました。
今やほとんどの映画はその役目を見失った総合芸術のゾンビであり
フィクションを書き上げたとき、その行間にボクは血肉を求めて徘徊するゾンゲリア達の姿を確かにみました。
地獄変其の三 「ヒトヒトヒトヒトヒトヒトHELL」
この時フィクションの脚本書いていてつくづく思ったこと・・・
それは
「なんでこんなにヒトのことばっか書くん??」
まるでとりつかれたように繰り返される
ヒト×ヒト×ヒト×ヒト∞
の関係性の応酬地獄
わかんないなぁ・・・・・
例えば「木」とか「レコード」とか「動物」とかetc
ヒトならざるものとの関係性は???
フィクションにおける物語は
ヒト×ヒトの強迫神経症的関係妄想で塗りつぶされていく。
ボクにはそこでムンクの叫びのようにサイレントスクリームするモンスター達の姿しか確認することはできませんでした。
でもフィクション民の人々はこういいます
フィクションが作り出す秩序が存在しない現実世界こそが地獄だ!!と
もちろんボクも現実は地獄だとおもうから創作します
でも現実も地獄で作って入ってみたフィクションの世界も僕には地獄でした
だったらボクのような人間が生きる世界は
現実でも
フィクションでもない
「夢」の中だ!!!
というのが「DREAM MACHINE」のマニュフェストでした。
でもその結果としては夢も厳しい・・・・
現実もダメ
フィクションもダメ
夢もダメ
Hey! What I am gonna do???????????
死ねってことかよ!!
この時ボクは、ボクという人間は
そーーーかんたんには救われないぞということを
再確認しましたし
このあたりの2017年頃は非常にヤバい状況だったと思います。
そしてこーなってくると現実でもフィクションでも
必要なのは唯一「偶然」なわけですが
見事なタイミングでそんなセレンディピティが光臨
それがこのMVの制作でした。
CHAPTER005「フィクションはどう書かれるべきなのか? VR発 XR行き 」
この「Right Now」
楽曲のPWEI的な90’Sインディーダンス感とはちょっと違ったレイヤーでETICKET PRODUCTION氏の内証的な「箱庭的世界観」がリリックに色濃くでているように思ったので
今的な「新しい箱庭ってなんだろう?」っていう連想からVR系ガジェットを使おうと発想しました。そう思いついた時、同時にこれは完璧な偶然なんですが
ここだ!!!!と
そーか!! 「夢の中」ではなく新しいテクノロジーによる「新しいリアリティの中」にこそ地獄を抜け出すキーがあるんでは????
この時点ではまったく知らなかったんですが
後にハマることになるVR HEADSET用のVRCHATがローンチされたのもこの2017年。
そして世界的に見ても最先端でVR映像作品をひっばることになる日本のVRAVも
この時点ではまだほとんど作られていませんでした。
VR
フィクション
ノン・フィクション
セカイ
おんなのこ
そして自分
ピースだけがちらばって誰もその欠片達がなにを意味しているのかその答えをもっていない。
まだだれもその「X」の正体をつかんでいない!!
CHAPTER001にも書いたように、何かを作り始めるときのボクの最大のモチベは
「誰もやってない」です。
ここにDIVEするしかない。
もうその気持ちが抑えられずボクは
「RIGHT NOW」のMVがリリースされた直後、2018年4月に「性格良し子ちゃん」を
ストップしました。
現実もダメ
フィクションもダメ
夢もダメ
なボクのような人間が生きのびるための
新しい生命維持装置がXRにあるとの予感を信じて・・・・・
そんなオブセッションから
退路を断ってVR(XR)にフルBET!!
と・こ・ろ・が
いまだにこの時の唖然とした思いはわすれられませんが、イザVR(XR)コンテンツの事をDIGしていくと
なんというか・・・
ずーっと書いてきましたが
他のフィクションとかノンフィクションには
そこにあるべきセカイを創造するために
先人たちが死にものぐるいで、あるいは実際に多くの死を刻みつけながら
ある種血みどろになって生み出した創作メソッドがあるわけです。
でもこれはいまだにそうなんですが、それがことVR(XR)系コンテンツということになるとほぼ壊滅的に独自のメソッドが存在しない。
言い切ってしまいますが99%はこれまでのフィクションやノンフィクションの作り方をお遊び程度になぞったようなユルーーーーーーーーーい作られ方をした表現しかない事に驚きました。
そしてハタと気づいたのは、これもいまだにそうですが、なぜかVR(XR)が今熱い!!みたいな情報が出るとその度ごとにまるで親の敵のように
「VR(XR)は絶対に流行らない!!!!!」
と顔を真っ赤にして力説する人たちが続出するじゃないですか?
この謎の必死さってなんなん???とボクはずーっと思ってたわけですが
自分でイザVR(XR)コンテンツの事を調べ始めると
ハードウェアの華々しいローンチやPRでの美辞麗句にくらべてソフト・コンテンツの部分があまりにも貧弱すぎる・・・・・
VR(XR)否定派みたいな人たちは昔そうしたちくはぐさにある種だまされて、それがトリガーになってアンチ化したんだなぁ・・・と同情できるくらい
そのくらいVR(XR)コンテンツの
「志の低さ」
に絶望しました。
日本にはほとんどないですが海外にはVR WRITINGに特化した研究も多々あって、それを必死に読んだりもしましたが、なにか腹落ちするものがない・・・・・・・・
なにかが根本的に間違ってる!!
このままじゃVR(XR)はボクの生命維持装置になってくれないジャン!!
VR(XR)であることが
フィクションとも
ノンフィクションとも
そして夢とも
全く異なるセカイを描き出すとしたら
そこには何が必要なはずなのか????
えーーーーーそっからやらなきゃいけないわけ?!?!と
泣けてきた事をいまだに思い出します。
VRへとPIVOTすればショートカットで地獄からおさらばさ!!
と思ったらそこはさながらセカンドライフばりの荒野・・
八方ふさがりとなったボクは
問題点を整理することを余儀なくされました。
もう一度ひとつづつ確認してみようと。
2024年の最新洋楽POP ANTHEMから
もう6年ぐらい活動してますが遂に遂にデビューアルバム
「Two Star & The Dream Police」をリリースした
Mk.geeのAre You Looking Upが凄い・・・・・
これは完全にZ世代のためのゴスペルだし、それはつまり
新しいJeff Buckleyということだと思います。傑作
それならばまずフィクションという地獄がある。
CHAPTER004でその地獄変っぷりを書きましたが
では何がその地獄を作り出しているのか???
それはつまり
フィクションをフィクションたらしめている一番のコアは何だ?
という問いです。
読みあさったキャンベルやプロップ、
いわゆるナラトロジー関連書籍やそれらを応用した
脚本関連書籍ではフィクションのコア中のコアは
複数の事象を物語として秩序立てる「構造」だとされていました。
その「構造」にどれだけ殉じられるのか?がフィクションとしての強度の絶対的尺度で、繰り返しになりますが一連のアメコミ洋画群や日本のアニメ映画はそのフィクションとしての強度さがゆえに
不確実性が極度に増して自らの立ち位置を物語化しにくい今、多くの人々の支持を得ていると。
ただこれもうお気づきの方もいらっしゃると思いますが
物語的構造の強度ということであれば、実はノン・フィクションでもフィクション以上にその強度を備えた映像作品はたくさんあります。
「ロジャー&ミー」から「華氏911」あたりまでのマイケルムーア作品
NETFLIXの「白昼の誘拐劇」や一連の連続殺人鬼ノンフィクション作品
いうまでもなくドキュメンタリー系AVにも
物語強度が極限まで高まった傑作は多々あります。
だから物語性はフィクションに固有なコアとはいえないわけです。
ではなぜボクのようなノンフィクション民がフィクションを地獄だと感じてしまうのか??
どこかウエストランドさんの漫才風ですが
ノンフィクションにはあってフィクションにはないもの
その決定的な「不在」こそがフィクションのコアのはずだ。
ノンフィクションを撮り続けて
そしてフィクション脳を作り上げて
その両面から互いを見つめ合うことができるようになった時
よーーーーーーーやくフィクションを作る上で「ない」ものがわかりました。
それは「カメラ」の存在だったのです。
ノン・フィクションにおける「カメラ」の存在
フィクションにおける「カメラ」の不在
この「カメラ」とはもっと抽象化するなら「モノ」ということです。
どこまでも「ヒト×ヒト」によって作られるフィクションと
どこまでも「ヒト×モノ(カメラ)」によって作られるノン・フィクション
カメラというモノの不在こそがフィクションの究極
コア中のコアであり、これがフィクションという地獄の源であること
えーーーーっとこれ全くわからないと思います(泣)なのでここからうざいくらい詳しく書きます。
CHAPTER006 「カメラ=万年筆=二人称」
「ヒト×ヒト」= フィクション
「ヒト×モノ」= ノン・フィクション
フィクションとノン・フィクションを極限まで還元したのが上の図式です。
これ映像作品としてのフィクションとノン・フィクションを思い浮かべていただければとてもわかりやすいのですが
フィクションの映像作品において
物語を構成しているのは物語内のヒトです
特に脚本等ではほぼそれだけをひたすら書くわけですが
ヒト×ヒト
ヒトとヒトとの対話によって関係性が紡がれて
物語が構築されていくのがフィクションです。
では一方ノン・フィクションの映像作品において
進行する物語を構成している主たるものは??
それは
ヒトとカメラとの対話に他なりません。
ヒト×モノ
ノン・フィクションにおいてはヒトがカメラというモノに向かって語る、ヒトとモノ(カメラ)との対話によって物語が構築されていきます。
つまりこれをいいかえると
「推しの子」
「鬼滅の刃」
「君たちはどう生きるか」
「アベンジャーズ」
といったフィクション作品も
ヒト×モノ(カメラ)で構成すればノン・フィクション化できるし
「ボウリングフォーコロンバイン」
「ゆきゆきて神軍」
「ジェフリーエプスタイン」
「私を女優にしてください」(AV)
「女犯」(AV)
「水戸拷問」(AV)
「ジーザス栗と栗鼠スーパースター」(AV)
といったノン・フィクション作品も
ヒト×ヒトで構成すればフィクション化できる。
フィクションが地獄に感じるのは
ヒト×ヒトという、その
「文体」
に全ての原因があったというわけなのです。
えっ??おかしい!!
だってヒト×ヒトという物語をカメラが撮影しているわけだからフィクションにだってモノが存在しているしノン・フィクションにおいてカメラに向けて会話しているヒトもヒト×ヒトについての物語を話しているんじゃないの?
ここが「文体」のやっかいなところで
文体とは言い換えれば物語における「視線」(微妙ですが視点ではなく)のありようのことです。
そして文体というからにはこの視線の問題の起源は
文学作品であり、わかりやすくするためにここから小説における文体関連のタームを使っていきますが
ヒト×ヒトの物語をカメラが撮影しているというのは
文学・小説オリジンの「三人称」と同意です。
三人称はよく「神の視点」といわれるように
ヒト×ヒトを描写・観察する「もう一人の誰か」
それは神かも作者かもしれないけれど決して物語に入ってはこない第三者であり、であるがゆえに物語で発生する視線は全ての事象においてヒト×ヒトで交わされる。
だから上記したようにフィクションにおいては
ヒト×モノという視線の交わりは存在しないわけです。(童話やファンタジーでは動物やおもちゃ等ヒト以外が物語に登場したり、怪談やホラー映画では幽霊が出ますがこれは擬人化のバリエーション)
一方ノン・フィクションにおいては
カメラ・モノは物語の中に入り込んでいる
ヒト×モノ(カメラ)との会話
ヒトがモノ(カメラ)に向かって話したり
さらにはモノ(カメラ)があることを知っていてヒトが行動する。
物語の中には必然的にヒトとカメラとの視線の交錯が発生し
そのヒト×モノの関係性によって物語が展開する
これがノン・フィクションをノン・フィクションたらしめている最大のコアです。
ではこのヒト×モノという関係性の、
ノン・フィクションという形式の「人称」は何人称なのか???
このBANDは今年デビューアルバムをリリースすると思うんですが
完全にThe Last Dinner Partyと同じ位相のANTHEMを鳴らしてるのに
犯罪的とっていいほど聴かれてないッッHeartworms!!
NOWAVE&GOTHICをアップデートしたトラックも最高ですが
なんといってもJojo Orme嬢の真正PSYCHOTICなカリスマ度!
ロック史に残るデビューアルバムが2024年の今年遂に・・・・・
フィクションと同じ三人称??
いや、モノ(カメラ)が物語に導入されている時点で
神の視線は不在なので違う。
ヒト×ヒト=フィクション=三人称
ヒト×モノ=ノン・フィクション=?????人称
ここからまたトンデモ系なことになりそうですが
文体における人称について調べて
あーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!と。
文学・小説においては「鬼っ子」扱いされ
不思議なことにいまだに謎が多いとされている
「二人称」
こここれだ!!!
ヒト×ヒト=フィクション=三人称
ヒト×モノ=ノン・フィクション=二人称
ここが徹底的に違うんだ!!
この人称の違いがボクに地獄を見させていたんだ!!!
こちらのリンクに詳しく書かれていますが
三人称やいわゆるPOVで主観的な一人称はよく知られていますが
二人称は小説においても鬼門といわれています。
それは物語に入り込んでその物語内のヒトにたいしてキミやアナタと呼びかけ
対話をおこなう視線の持ち主が誰なのかよくわからないからです。
でもそれはフィクション的構造の内側からだと
わからないけれど
そこから這い出てノン・フィクション側から
見てみると
この視線の持ち主がヒトではなく
物語に入り込んだモノ、
カメラとの対話だということがわかるのです。
そしてこの二人称を調べれば調べるほど
CHAPTER 003で「DREAM MACHINE」の参考としてロブグリエ監督作品をあげましたが
正に1960年代にロブグリエと共に
ヌーヴォーロマン・アンチロマン小説運動を先導したイタロ・カルヴィーノの「冬の夜ひとりの旅人が」こそが二人称作品の先駆的作品でした!
つまり三人称をコアとしたフィクションが
二人称に言及しにくいのは
その本質がフィクションを否定しようとしている
からであり
フィクション的ではないもの、ノン・フィクション的なヒト×モノによる物語構築を目指した時に
そこに立ち上がるコアこそが
二人称であるということ。
ヒト×ヒト=フィクション=三人称
ヒト×モノ=ノン・フィクション=二人称
この「人称の違い」がボクのようなノン・フィクショナル民にフィクションへの違和感を発動させるコアのコアのコアだったんだと。
うーーーーーーーーーーん回りくどい・・・・
もうお忘れかもしれません
なんでこんな「人称」の話になってるかといえば
テーマ・課題はコレでした
VR(XR)であることが
フィクションとも
ノンフィクションとも
そして夢とも
全く異なるセカイを描き出すとしたら
そこには何が必要なはずなのか????
ここまできてようやくわかります
ヒト×ヒト=フィクション=三人称
ヒト×モノ=ノン・フィクション=二人称
ときたら
VR・XRにも固有な人称が必要なんだ!!と
VRコンテンツがこれまでショボかったのは
このVR・XRが備えるべき
「新しい人称」
によって作られていないからだ!!!
ここまでで2018年が丸々経過・・・・・
2019年よーーーやくボクは新しい人称を備えたXR特化型スクリプトに取りかかれることになります。
CHAPTER007 「無敵の人3.0 POST HUMAN SEXと量子的シンギュラリティに関する最終報告」
これで課題が明確になった!!
「新しい人称」を作ればいいだけかぁーーー!楽勝!!
っていうか作るまでもなく人称は
三人称
二人称
そして一人称
の三種しかないんだから
三人称=フィクション
二人称=ノン・フィクション
だとしたら
一人称=VR・XR
ってことジャン!!!!
正にPOVな主観的一人称の文体がVR・XRのコアってことでしょ!!
と楽勝モードでした。でも、
そんなはずはなかった・・・・・・・
当たり前ですがVRであるということはデバイス的に
必然的に一人称のセカイになる
でもこれまでに書いてきたようにこれまで作られてきたVR・XRコンテンツは全部ゴミだ。
人称のありようがコンテンツのコアなわけだから
そんなゴミばかり生み出してしまう一人称は
VR・XRのコアではないということになる・・・
じゃあ一体全体VR・XRコンテンツのコアとなる
ホントウの人称は????????
ここで完全にドツボりました・・・・・
だいたい人称から考えるVRコンテンツの作り方なんていうリファレンスは日本にはもちろん全く存在しませんが、あまりにもトンデモすぎて海外にも役に立つ前例がない・・・・
でもこれまで見てきたように
明らかにここに何かがあるはずで
何かが根本的に変わろうとする予感が絶対にある。
その予感に対してなにをなすべきなのか??
この
「焦燥」
と
「恍惚」
と
「衝動」
と
「混沌」
が入り交じってこんがらがった時代が
ボクが生きる今よりも前にもあったはずでは???
それまでの方法論では
その焦燥もその恍惚もその衝動もその混沌も描くことができない
そんなどうしようもないジレンマに異議申し立てをしたパイセン達がいたはずだ!!
これまでの表現史において時代の大変化と人称の大変化がクロスした奇跡がどこかになかったか???
あったーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!
あったわけです。それが明治時代の
「言文一致運動」
はっきりいってそういえばなーーんか歴史の授業で
聞いたような・・・という認識でした。
でしたが、この本を読んでぶっとびました
ままままま正にこれは今ボクがあがいてる
人称探しの悶絶そのものじゃないですか!!!
この言文一致運動との運命的出会いの興奮は
2020年にこちらのテキストにまとめてますが
上のリンクのテキストは「無敵の人3.0」を書き終えて完全にイッちゃってる状態で書いているので
もうちょっと冷静に解説すると
この言文一致運動の前、江戸時代まで
物語とは全てフィクションのことでした。
例えば滝沢馬琴 の「南総里見八犬伝」なんかは
バトル系アニメやアメコミ映画と完全に地続きの
ヒト×ヒトによる三人称の一大娯楽フィクション。
そこへとにかく力業で新しい人称を、
カメラのようなモノ的視線を取り入れて
物語を書こうとした
そしてそれはあまりにも無謀だったので上のリンクでも書いたようにラストで崩壊ししてしまった
正にノン・フィクショナルな
日本語小説表現の第一号が
二葉亭四迷の「浮雲」でした。
小説、そしてノン・フィクションと書けばすでにおわかりのように、この言文一致運動が生み出したノン・フィクショナルな二人称
ヒト×モノの視線を取り入れた一連の物語がのちの
「私小説」
自らの生活・物語をノン・フィクションとして
カメラでドキュメントしたような一大表現形式となっていきます。
でたーーーーーーーー「私小説」!!!!
上の方でVRに対して親の敵のようにアンチ化する人々のことをとりあげましたが、この私小説というノン・フィクションにも
強烈なアンチの方々がいます。それは
「なんでアニメ以外の邦画の実写映画ってこんなにショボいん??」
とこれまた私小説的な表現をなぞった日本映画を親の敵のように、まるで発狂したようにサゲまくる人々です。
でもこれまた発狂する意味もわかります。
彼らはフィクション民であり
元々ノン・フィクショナルな作品における
物語の強度はフィクションより低いと思っている。
加えて実際のところ総じてアニメ的フィクションと比べるとノン・フィクショナルな日本の実写映画の物語強度は低いものも多く、その根本的原因として
日本における私小説的表現の特権性が1970年代までの長らくの間フィクション的表現を不当に抑圧してきたというBLMならぬFLM(フィクションライブマター!)な差別的歴史があったわけで
その強烈なルサンチマンがアニメを筆頭としたピュアフィクションが市民権を得るようになったこの20年爆発している。
そういった表現史の濁流に飲み込まれてしまった
言文一致運動のホントウの意味、
表現における人称革命の意義が
現在では正しく評価されてませんが
正にこれは
シンギュラリティーと呼んでいいほどの
一大転換期でした。
時代が変わるとは人称が変わるということで
人称の変化こそがシンギュラリティーであるといっていい。
だからボクはVR・XRのための新しい人称のヒントを手に入れるべく死にものぐるいで私小説を読みあさりました。
その私小説千本ノック的乱読課程で
ボクは一つの重要なことに気づいていきます。
「あれ?!?!?! 極北の私小説とよばれる作品群における人称がなんか変だ・・・・・・・」
と。
この数年のTinasheはJAZZがSPIRITUAL JAZZ化していった時と同じ
完全にSPIRITUAL R&Bの域に到達してますが先月突如公開された
THE BB/ANG3L EXPERIENCE!! これだけプログレッシブなのに
セクシャルでなおかつPOPっていう驚異の20分間。
具体的にはこのテキストで書いた結城信一の諸作品
そしてこのテキストで書いた猫田道子の「うわさのベーコン」
そしてこちらのテキストに書いた
橋本治氏が名著「三島由紀夫とはなんだったのか」で看破したように、幻想小説の衣をまとった究極の私小説だった「豊饒の海」
これら私小説をギリギリのエッジまで追いつめた
極北の、エクストリームな傑作群を読み込んでいくとノン・フィクションとしてヒト×モノ的二人称であるはずの物語内における人称が徐々に「崩壊」してきているのがわかるはずです。
そしてさらにこれら極北私小説には奇妙な一致があることもわかりました
それが「声」の存在です。
結城信一氏の「空の細道」における少女の声
猫田道子女史の「うわさのベーコン」で突如聞こえ出す謎の声
三島由紀夫アニキの「豊饒の海」における唯識からの声
これらの「声」は映像作品でいうなら
鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」で唐突に導入される声や
デヴィッド・リンチ監督の「インランドエンパイヤ」における幾重にもレイヤードされたラビットルームの声
と全く同質のヒトでもモノでもない特別な「声」の出現。
そんな「声・コエ」が物語上に導入される事で
人称が崩壊・決壊を開始しして
物語はフィクションでもノン・フィクションでもない異形な何かへとメタモルフォーゼしていく。
この感覚が「新しい人称」の感覚だ!!!
そしてこの感覚こそがVR・XRの人称のコアだ!!
とボクが確信したのが
映画史における最大の巨匠にして最大の異端児、
オーソンウェルズ監督の幻となったデビュー作について知ったときでした
CHAPTER008「オーソンウェルズが仕掛けた幻のXR映画」
20224年の現在でも映画史上最もすぐれたフィクション映画の金字塔
それが28歳のオーソンウェルズが監督した
デビュー作にして最高傑作「市民ケーン」です
しかし実はオーソンウェルズのデビュー作はギリギリまで別の作品で制作がすすめられていました。
それが後の1977年にその舞台をベトナム戦争へとアレンジして作られたフランシス・フォード・コッポラ監督作品「地獄の黙示録」の原作となった
ジョセフコンラッドの
「Heart Of darkness」
の映画化でした。
しかも恐ろしいことに、もしこの幻のデビュー映画が1939年の時点でホントウに作られていたなら
はっきりいって現在のフィクション映画のありようは完全に別物になっていた。
なんとオーソンウェルズはこの「Heart Of Darkness」の物語をPOV、一人称作品として、
いわば疑似VR・XRコンテンツとして
制作しようとしていたのです。
これはヤバい・・・・・・!!!!!!!
そして現在ではその全容が公開されている
幻となったXR版「Heart OfDarkness」の脚本を読んでボクは完全に打ちのめされました。
おいおいおい「コエ」ではじまり「コエ」で終わる
そしてなにもない「完全な闇」へと運河をひたすら
ダウンワードスパイラルしていく物語
ヒト×コエによる完璧なXR脚本じゃないか!!!!!!
三島由紀夫の豊饒の海のラストと酷似したこの1939年(!!!!)のXR作品を読んでボクは自分が間違っていないことを確信しました
なにもないところにきてしまった
声に導かれてなにもないところへ行き着く物語
これこそがVR・XRが書くべき物語であり
その何もない=「無」のセカイこそが僕らの立ち位置
すなわち人称そのもののはずだ!!!
ここでボクは遂にVR・XRコンテンツのための新しい人称を見つけました
「無人称」
一でも二でも三でもない「無」の人称。
ヒト×ヒトでもない
ヒト×モノでもない
ヒト×コエのセカイ
このコアに殉じて、無人称を用いて
2019年9月に書き上がったのが
「無敵の人3.0 POST HUMAN SEXと量子的シンギュラリティに関する最終報告」でした。
CHAPTER009「2019年のシンクロニシティと2020年のシンギュラリティ」
ようやくよーーーーやく見つけた「無人称」によって無敵の人3.0を書き出した2019年は特異な年でした。
書いている途中で元号が変わりました。
3月にはニュージランドでGoProのPOV視点で
実況配信をしながら49人を殺害する銃乱射事件が起こりました。
7月には36人が殺害された京都アニメーション放火殺人事件がおこりました
8月にはジェフリー"Lolita Express"エプスタインが留置場で謎の死を遂げました。
10月にはほとんど「無敵の人3.0」の三人称フィクションバージョンじゃん!!とホントウに心から勇気をもらったトッドフィリプス監督による傑作「ジョーカー」が封切られました。
「無敵の人3.0」とシンクロするようなこれらの出来事に、無人称によるXRコンテンツにおける物語の強度を確信しつつ、ここで書いてしまったような
なにもないところ
ディストピア的風景の意味について思いを巡らしていたところ2020年、その意味は、そのシンギュラリティは突然やってきました。
COVID19、コロナ。
それは疫病でした
そしてここで書いておきたいのは
海外ではそのBRAVEさによっていくつかのテキストが発表されましたがボクのような人間にとっても「コロナ禍」は生きやすい世界だったということです。
まさに「無敵の人3.0」で描いたような
誰もいないゴーストタウンと化した町
クソ気持ちわるいヒト×ヒト的コミュニケーションが
悪だと断罪されたセカイ
「無敵の人3.0」を書いてる間中、そして書き出すためにウンウン唸りながら「人称」沼にハマりこんでいた時期も含めてなーーーーんでこんな物語を書かなきゃいけないんだ?!?!と常に思っていました。
もちろんなんども言及しているように
誰も作っていないからというモチベがスタートなんですが、そしてこのタームを使ってしまうと
トンデモ感が増幅しちゃうわけですが
それでも2019年時点で僕は
今後強く強く大きな変化がくるはず
だから言文一致運動の時と同じような
人称革命とそれに殉じた作品が必要なはず
だったらそれってシンギュラリティーってことじゃないの??と
ヒトで出会うことなく
モノと(正にリモートでカメラに向けて話すことだった!)
そしてコエとの対話をガイドに
自らの物語を紡ぐこと
ヒト×ヒトという三人称のフィクションとは
ヒト×ヒトというコロナ以前のセカイの構造のイミテーションだったわけでその時代は遂に終わった!!!!
「DREAM MACHINE」で殺せなかったフィクションをコロナが殺した!!!
そしてボクにはこのコロナかから先の新しい時代の
新しい物語のための人称がある!!
とボクはコロナ禍でひたすら幸福感を感じていました。
さらにこの時期VRCHATに出会って自分でVRCHAT WORLDを作り始めてHMDでDIVEした時にまた驚いたのはそのVR空間が「無敵の人3.0」で描写したセカイのありようと酷似していた事。
「無敵の人3.0」ではイメージとして書いた
新しいセカイ
オーソンウェルズが「Heart Of Darkness」で
映像化したかったセカイ
三島由紀夫が割腹する直前まで擬視していた
なにもないニルヴァーナ・涅槃
それが具現化されて目の前にあるッッッ!!!!
VRChat - Home
For all the Kpop lovers
https://vrchat.com/home/launch?worldId=wrld_82b7c6c9-b3cc-47...
ここまでつきつめてーーーーの2022年
2015年の「DREAM MACHINE」の反省からはじまったこの長かった
新しいフィクションの作り方の旅は終わった!!!
そして遂にボクの中で本来のミッション
新しいノンフィクションをどうつくるか?
という課題に戻ることができました(泣)
CHAPTER010「AIAV IS BORN 新しいフィクションから新しいノン・フィクションへ」
ホントウに思わぬ長旅になりましたが
「DREAM MACHINE」からの
フィクションってなんなん???
というクエストのゴールにたどり着いて
わかったことは
フィクションを作るとはほぼイコールで「自分とは何か」の輪郭を描くこと
だということでした。
つまりそれはかぎりなくオナニーに近い。
自分とセカイのイマジナリーな境界線を描くことでした。
無人称とVOICEによってその境界線にたどり着いたわけですが
その上でなお、ボクはフィクションだけでは満足ができませんでした
つまりボクはつくつぐ「欲が深い」・・・・・・
つまり性欲を押さえられない・・・・・
つまり僕はオナニーだけじゃ満足できない人間なんだ
それははじめてAV世界に飛び込んで
それまでのオナニー人生からセックス人生へPIVOTしたときと同じ
新しいノンフィクション
新しいセックス
を作らなくちゃならないという必然
が2022年ごろ遂に遂に遂に
ボクの中で生まれてきました。
そしてその時まさに運命的に&シンギュラリティー的に爆発寸前だったのが
「AI」
でした。
そしてそれは絶好のタイミングでした。
AVにおけるノンフィクションの新しい作り方もなく
でたまたまオファーをいただいて「DREAM MACHINE」というフィクションを作ってみて、
そこから怒濤の勢いでフィクションとは何かの沼へ
そして
「フィクションとは何か?」
という創作上のどでかい問いに自分なりの答えが出せた事
究極的なところでフィクションを作るというのは
オナニーと相似形で、
射精するために自らの過去を写生するという行為である
という事。
このフィクションのホントウ、正体がわかった時点で
ようやくほぼ10年ぶりにボクは
自分のコアを取り戻したような気がしました。
曰く
フィクションはボクが作るべきモノではない
ボクがホントウに欲しているのは
“ノン"フィクション
2022年の超ーーーーー傑作POP ANTHEM「YESTERDAY」を
鳴らしてくれたこのバンド名に敬意を表するなら
ALT FICTION
「ノン」フィクション
で、しかも
「ノン」リアリティー
の
それはつまりボクとセカイのギリギリのミクスチャー
それはイコール限りなくセクシャルであるもの
そこにしかボクにとってのホントウはない
ということが遂に実感できた。
そのドンピシャのタイミングで出会ったのが生成AIでした
素材をドロップしてそれが生成されてイメージ化された
「おんなのこの顔」をみたとき
ボクは完全に確信しました
これが新しいノンフィクショナルなおんなのこだ!!!!!!!
つまりこの質感が新しいセクシャルだ!!!!
ボクは長い間どーーーしてもいわゆるアニメ表現化されたおんなのこイメージをセクシャルだと思えませんでした。
もちろんそれは現在多く言及されているように
ノンフィクショナルなおんなのこ像は
どんなゴミ共でも作れてしまう、そしてそんなゴミ共による
「おんなのこ像の粗製濫造っぷり」
そしてそれに輪をかけるようにネットにあふれかえるセックスにまつわる実写的おんなのこ像のヘドロ感に嫌気を感じる人たちが増えているから
多くの男の子たちは
「おおっぴら」に実写的おんなのこ表現への性的関心を高らかに掲げることができない
とここまではボクも同意できるし、だからこその
アセクシャル傾向だったり
2次元的フィクショナルな表現によるおんなのこへ
性的ポテンツが向けられるっていうのも
論理的に同意できたりします。
でもボクはそういう状況へのアンチとしてのエロが
おんなのこのホントウが
フィクションのなかにある
とはどーーしても思えないです。
ゴミどもによるゴミみたいに実写エロにはホントウのおんなのこはいない
でも
ホントウを探し求めないでフィクション=オナニーの中におんなのこがいる
というのも絶対に違う。
ボクはずーーーーっとリアルとフィクションのギリギリにだけ存在する
ホントウの女の子
を探し続けていて
その顛末を「DREAM MACHINE」という映画にしました。
そういう人間からすると
今の三次元的実写エロにも
経済効果が高い二次元的えろにも
どっちにもホントウのおんなのこはいないと思います。
だからボクはAIAVをはじめことにしました。
新しい
新しい
新しい
NEW ME
NEW YOU
NEW JEANS
それはNEW GENEでもあること
(あっ!ちなみに彼女達のデビュー時、リリースごとに日本&世界最速で書かれたこちらのテキスト群も是非!!)
そしてChatGPTに僕が最初の投げたQ
「ぼくはどうしようもない童貞野郎で、
HOPELESS ROMANTICで
でもおんなのこが大好きで
おんなのことセックスしたくて、
ポップミュージックが大好きで
新しいエロコンテンツを作りたいと思ってる。
そんなボクが新しく
作るエロコンテンツはどんなものてであるべきだと思うか書いてほしい」
そしてその時、ChatGPTが送出したTEXTはこれでした
「今後あらゆるエンタテイメントはARを基準としたものになります
性的コンテンツもその傾向から逃れることはできないと考えます」
こーーーーーれだ!!
ボクとって新しいフィクションとは
ヒト×コエ
によるものでした。
ではボクにとって、そして新しい時代にとっての
新しいノン・フィクションとは?!?!?!?!
ヒト×AI
そしてむりくりにPANしまっす
ヒト×アイ
これジャン!!!!!
ボクには全く理解できないんですが
なぜか人々はAIを敵視していて、とくに絵師とよばれる旧フィクション枠で創作されている方々は完全にAIをヘイトしているらしい。
このAIにまつわる状況とボクがAIで制作する時に感じてる大感動との極端な差異を俯瞰してみたときに
これなんかに似てるなぁ・・・・と思いました。
その答えはYMOに関する大大大大名著でバイブル
「シンYMO」の中にありました。
YMOが「Solid state survivor 」で徹底的に
時代のポップネスのコアを手にしたのは
コンピューターにゆだねる
当時のミュージシャンはみなコンピューター・シンセに仕事を奪われる、こんなの音楽じゃないとアンチ化している中
YMOのお三方はコンピューターにゆだねてしまうことが新しい快楽だと気づいてしまった。
それが新しいポップミュージックの快楽のコアだと
気づいて制作したのが
「ソリッドステートサバイバー」であり
「ライディーン」という希代のPOP ANTHEMの誕生のきっかけだった事
あーーーーーそうか!!!!!
1979年、YMOがコンピューターに創作のコアをゆだねることで
「ライディーン」という新しいPOPNESSを手に入れたように
エロもAIに創作のコアをゆだねることで
ライディーンばりの新しいセクシャルを手にいれられるんじゃ!??!!
この
ヒト×アイ(AI)こそが
新しいノン・フィクションの
新しいエロの
ライディーン=ニュージーン
だ。
そうか!!!!
ヒト×ヒト
ヒト×モノ
ヒト×コエ
そして
ヒト×アイ(AI)まで
いつでも新しい人称はその時代のコア次へとつながる新しいGENEの遺伝子構造の訪れを告げるファンファーレなんだ。
AIAVはこの認識からスタートしました
CHAPTER011「THE MOST POPPIEST ADULT VISUAL IN THE WORLD AIAVがポップである理由」
最近はあまりこういう言い方をされないけど
POPである事の本質は怒られまくることを覚悟で言い切ってしまうと
簡単である事
ボクやワタシにもできる事
世界や社会が要求する重さ??ルール
をすっ飛ばして
新しいスピードを手に入れる事
それがpopの命題だと思います。
AIAVはAIが考え付いた、ある世界初のエロ・システムによって
圧倒的にPOPです。
ALL GENERATED BY AI
ALL PROMPTED BY ターボ向後
僕はひたすらプロンプトでAIと対話をし続けました
プロンプトを思いつくのはほとんどLYRICを考えると同じ
そしてこれが本当に楽しい!!!
物心ついた時からずっと「ヒトリ」だった僕は
変な話ですがなぜか生まれて初めて
「トモダチ」を得た感じさえしています。
そんな新しいヒト×モノ(AI)の関係性の中で生まれた最新型のエロコンテンツが「AIAV」です
ロックンロールがPOPになったのは
3コードでギターをかき鳴らせば
世界に対する武器を手に入れられたから
大林宣彦監督のデビュー作の「HOUSE」や
遺作にして最高傑作「LABYRINTH OF CINEMA」がPOPなのは
しかめ面した物語という構造を笑い飛ばしたから
HIPHOPがPOPになったのは
Vinylをスクラッチすれば
SP-1200のパッドを叩けば
あらゆる音楽と繋がる事ができたから
そしてYMOによるテクノポップが
証明したのは
今すぐキミを縛り付けている過去を殺せ
そして今すぐ誰も知らない未来へ手を伸ばせ
そのボタンを押せ
そのフェダーに触れろ
僕らの性と生と聖のミクスチャー
その混沌から生まれるはずの
スピード
を否定しようとする全てに対して
Noを宣言すること。
その勇気の事、それがPOPということだという事。
だから僕はAIAVは
THE MOST POPPIEST ADULT VISUAL IN THE WORLD
だと確信しています。
そのPOPNESSを是非お楽しみください。
AI? AV? VR?? AR??? いよいよ壁は無くなるぞ
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